Vol. 23 # 8
いのり 祈念
いのり、祈念を一般的な意味で、信奉者が日ごろ行う祈念について述べてみたい、と思います。
祈念は、神と人との心の交流です。ですから、どのように祈念したらよいかは、どのようにその要領をどう伝えるか、あるいは交流を妨げるものにどのように取り組んだらよいのか、という問いに置き換えられることができます。
神との交流というとき、すぐに思い浮かぶのは、一心不乱であること、真剣であることでしょう。 このことが祈念にとって重要であることには、だれも異論をはさまないでしょう。
天地語168 -「神を本気で拝むには、柏手を打って神前に向かったら、たとえ槍先で突かれても後ろを振り向いてはならない。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かない」と説かれるほどの本気さが求められます。 そうした強固な意志に基づくもののほかに、没頭し夢中になることによって、「物音や物声」が聞こえなくなるような状態に入ることができます。 夢中になるには、そのことが好きでなければなりませんが、祈念が好きになれば、一心になり、本気になるばかりでなく、そこに楽しみさえ感じることができるでしょう。
神との交流を考えるとき、いかに自分をさらけ出すことができるかということも大切です。 通り一遍の願いに終わってしまうことも、自分をよく見せようとして表面をつくろうことも、祈念する時や場所によって「頼む心にへだてなくいのれ」165 を持つことも、 祈念の中身や結果について前もって自己判断を加えることも、在ってはならないことです。 それらは神と人との間に距離を置くことになり、交流が妨げられるからです。 その意味では祈念は、神にありのままを分かってもらうことであり、祈念する人自身がありのままをわかってもらうことであり、祈念する人自身がありのままの自分に気づくことなのです。
祈念に当たって、さらに大切なのは、形にとらわれず「真」をもって神に向かう、という点です。 金光大神はたえず、そのことを多くの人に語りかけています。
天語169 -「いかにありがたそうに拝みことばを唱えても、心に真がなければ神にうそを言うのと同様である。」
天語166 -「神を礼拝するのに、別に決まりはない、実意丁寧、正直、真一心がかなめである」
天語170 -「神を拝むのに手や口を洗っても、心を洗わなければ何もならない。心は火や水では洗えない。真一心で心を洗って信心せよ。拝み信心をするな。真でなければいけない」と。
心に真があるかないかは、その人のいのちの叫びとして神に向かう必然性があるかないか、ということにかかっています。 巧みな拝みことばや、厳格な礼拝作法や、特別な精進潔斎によっているかどうかではなく、それに当たる人間の中身、いのちの真実が問われているのです。
そして、さらに祈念について述べておきたいのは、祈念の日常化ということです。 それについて次のように教えられています。
天語167 -「信心といっても別にむずかしいことはない。 親にものを言うように、朝起きたら神にお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、よそへ行くときには、いってまいりますと言ってお届け申し上げよ。 そして、帰ってきたら、無事で帰りましたとお礼を言い、夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それて信心になる」
いつも神と共にあるに人間として、神前に進んだ時の祈念と同様に、日常生活の中でも事あるごとに行われることが求められます。 祈りつつ生活し、生活しつつ祈ることによって、神と人との交流は、生活の全面に及ぶこととなります。 祈念に特別な思いを込めるとともに、祈念を特別なこととしないことが大切です。
ガーデナ教会行事
朝参り
来る八月六日日曜日、九時よりご祈念を仕えさせていただきます。ご祈念後、教会の内外の清掃を真心こめて行います。昼食後は信徒会の会議が行われます。
月例祭
来る八月十三日第二日曜日は午前十時より取次広前にて八月の月例祭が仕えられます。
ロスアンゼルス教会行事
金光教ロスアンゼルス教会月例祭
来る八月二十七日第四日曜日に午前十一時より、ガーデナ広前にて八月の月例祭をお仕えします。
北米信奉者大会
KCNA カンファレンス委員会会議が八月六日、午後一時半より執行されます。
北米教団は2023年八月十五日から二十日まで信奉者大会がUniversity of California, Santa Barbaraにて執行されます。
Youth Camp: 8/15 - 18
Young Adult Seminar: 8/16 - 18
Family Camp: 8/17 -18
Spirituality Bridge: 8/17 - 18
Conference 8/18 – 20
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