Vol. 22 # 7
人は神のいとし子、
金光大神の信心は人間を「神のいとし子」教えています。「神のいとし子」というと、特定の人だけが生まれながらにそうである、とされるような、いわゆる神の申し子、ではなく、すべての人間が神のいとし子なのです。次のおしえは、そのことを明白に説いています。
「天地金乃神はこの世の親であるから、天地金乃神に信心していると言っても、していないといっても、天地の間に生きているからには、天地金乃神の子に変わりはない」39。「神のいとし子」ということの内容を金光大神の信心でみてみましょう。
1. 人は神の慈しみを受けているもの。それは、
人間は神によって生命を存在させられ、
神からたましいを分け与えられ(分けみたま)、
神の恵みが満ち溢れた中で働きをなし(おかげの中に生かされて生きている)、
「人間が助からねば神も助からない」といわれるはどの切なる神心に包まれて生きています。「わが身は神徳の中に生かされている」42 といわれるように、まさに人間はまことに限りない神の慈しみを受けているのです。
2. 人間はわが身に神のはたらきを現わし得るもの
人間は分けみたまをいただいて、よいもの、すばらしいもの、神を感得できる力、自らを整える力を可能性として持っている人間ですから、信心に目覚めることによって、その可能性を開花させることができます。「金光大神のことを生神と言うが、金光大神ばかりではない。この広前に参っている人々がみな、神の子である。生神とはここに神が生まれるということで、金光大神がおかげの受けはじめである。皆もそのとおりにおかげが受けられる」362との教えがそのことを極端に語っています。
わが身に神のはたらきを具現(具体的に現わす)することには、神に目覚めること、困ったことの上におかげを受けること。神の思いに沿って生活を営むこと、自らの身の内や外に神が生まれること、それが常時具現し続けられるという意味で、自ら神(生神)になることなど、いろいろなことが含まれています。それらのすべての可能性を持ったものと言うのが、神のいとし子として神のはたらきを現わし得るという意味です。
3. 人の上に神のはたらきを現わし得るもの
神のいとし子とは、わが身の上ばかりではなく、人を助け、社会を助け、世界を助けるという意味で「人のうえに神のはたらきを現わし得るもの」という内容を持っています。
神からの分けみたまとして、ひとの苦しみがわかり、ひとを思いやる力を与えられている人間ですから、そうした可能性をまぎれもなく秘めているのです。
「人が人を助けるのが人間である。人間は病苦災難の時、神や人に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが人間であると心得て信心をせよ」49 とのみ教えは、人のうえに神のはたらきを実際に現し助けることこそ、人間の最も人間たる理由であると説いています。さらに、「あなたも、神の仰せどおり真一心に信心しておかげを受け、人を助けて神にならせてもらうがよい」363とのみ教えは、神の慈しみを受けていることも、わが身に神を具現することも、人を助けることに於いてその究極的な意味を会得することを示しています。
神のいとし子と言うことは、神から送り届けられたものです。しかし、神のいとし子であるというより、真の意味での神のいとし子になる努力が必要となります。そしてそれは、信心によって神のいとし子にふさわしいものになることが出来るのであり、信心するかしないかの違いはそこに現れています。
さらにいえば、それは単に人間だけの問題にとどまらず、「人間が助からねば神も助からない」とされる神にとっての問題でもあることを考えれば、神のいとし子と言う可能性が実現できるか否かは、重大な意義を帯びているでしょう。
われわれ、このお道の信心をさせて頂くものは、信心してわが身におかげを受け、神のいとし子としての自覚を持ち、神心になって、受けたおかげを人に丁寧に話をし、人の助かりを導くことが真の神のいとし子です。
金光教ガーデナ教会お知らせ
朝参り、清掃、信徒会議
来る七月三日、午前九時からご祈念が始まります。 信心する者は何事も信心に成れよ」それが常時具現し続けられるという意味で、自ら神(生神)になることなど信徒会の会議をさせていただきます。会議どなたでも参加できます。あなたも参加しましょう。
七月月例祭
来る七月十日は午前十時より月例祭をお仕えさせていただきます。祭り日は、信心を忘れないための大切な日である。この祭り日を忘れさえしなければおかげがある。忘れたらおかげはない。親の恩をさすれないための法事のようなものである。何事にも恩を忘れてはならない。
ガーデナ教会教義研修会(GCWC)
七月十七日午前十時から二時まで。 金光教教典ご理解III、尋求教語録の教えを探求の勉強会。
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