Vol. 23 # 5
天地金乃神大祭をお迎えして
野山には、新しいいのちが芽吹き、天地のいのちをわが身に感じる季節になりましたね。来る五月十四日にガーデナ教会斎場にて天地金乃神大祭をお仕えさせていただきます。全ての上に都合繰り合わせをいただかれ友人知人をお誘いの上参拝されますよう、ご案内申し上げます。
金光大神さまは、「天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである」VU2 と諭されました。人間をはじめ万物が生きていることのできる根本の原因が、天地が生きていることにあること、言い換えれば「天地のいのち」が万物の「いのち」のもとといえます。
天地のいのちが万物のいのちのもとであるということは、例えていえば、ここに一本の木があるとして、一本の枝、一枚の葉が生きていることが出来るのは、木全体が生きているからである。という関係に似ているでしょう。人間は天地のいのちを自らのいのちに取り入れて生きています。天地のいのちとわたしたちのいのちは別物ではなく、わたしたちのいのちは天地のいのちを分け与えられたもの、天地のいのちを分け持っているものすなわち天地の分身だといえるでしょう。
一本の枝、一枚の葉を、そこだけで見ていては木全体のいのちとのつながりが見えないように、人間が自身や人間の世界だけを見ているかぎり、私たちのいのちのもとである天地のいのちに目を注ぐことはできません。視点を転じて、天地といういのちのはたらきの中で、「じぶん」をとらえるのでなければなりません。そうすれば、金光大神が具体的な天地の姿と、その中に生起するさまざまないのちの動きに、天地のいのちの現れを見たように、万物のいのちのもととしての天地のいのちが私たちにも立ち現われて来るでしょう。
天地金乃神は「此の方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀なうじこあり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」と金光大神に、神と人と常に、共に関わり合うことを頼まれ、神と人とが共に生きるみちを願いました。金光大神は、神は「無限のいのち」であり、人間にとっては「神はいのちのもと」と教えてくださいました。
天地金乃神大祭は、天地金乃神の広大なはたらきと恵みにお礼を申し上げると共に、神と共に生きる生き方「すべてを神にすがること、神と対話をすること、すべてを神に任せること」などを祈願させていただく祭典です。
祭典をお迎えするに当たり、私たちは、あらためて神様の願いをうけ、わが心の神にめざめ、祈り、対話、行動をもって、じぶんも人も助かる働きを、生活の中に現し、世界・人類の助かりにむけて、ご神願成就の信心を進めてまいりたいと存じます。
神
金光大神のみ教え:
「天と地の間に人間がいる。天は父、地は母である。人間、また草木など、みな天の恵みを受けて、地上に生きているので。」 (1、天地は語る)
「天地は生き通しである。天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである。」 (2、天地は語る)
「天地金乃神は昔からある神である。途中からできた神ではない。天地日月の心になることが大切である。信心はしなくてもおかげは授けてある。」 (3、天地は語る)
「目には見えないが、神の中を分けて通っているようなものである。畑でしごとをしていようが、道を歩いていようが、天地金乃神の広前は世界中である。」 (7、天地は語る)
「天地金乃神のご神体は天地である。宮社に鎮まり納まっておられるのではない。真一心に心に神がおられて、おかげになる。」 (9、天地は語る)
「天地金乃神は、幾千万年、天地のある限りただ一つであるけれども、ほかの神は年々に増える。」 (14、天地は語る)
「世界中、天が下の者は、みな天地金乃神の子である。天地金乃神のおかげは世界にいっぱい満ちている。そのおかげが無ければ空気が無いのと同じで、人間は一時も生きてはいられない。」 (18、天地は語る)
お知らせ
朝参りと清掃、信徒会会議
五月七日は朝参りの日です。九時から朝のご祈念をお仕えいたします。ご祈念後教会の内外の清掃をいたします。その後信徒会の会議を仕えます。
天地金乃神大祭
五月十四日の午前 十時にガーデナ教会斎場にて天地金乃神大祭をお仕えさせていただきます。
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