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天地の声 令和七年十一月

  • Rev. Nobuharu Uzunoe
  • 14 時間前
  • 読了時間: 13分

Vol. 25# 11

私たちロスアンゼルス教会とガーデナ教会はこの神聖な生神金光大神大祭に、 あなたとご家族、友人をご招待いたします。ぜひご参拝ください。

  金光教ガーデナ教会並びに金光教ロスアンゼルス教会は、来る十一月九日十時より生神金光大神大祭をお仕えさせていただきます。生神金光大神大祭は、さまざまな苦難の中、このお道を開いてくださった教祖金光大神様への御礼の祭典であるとともに、永世生き通しの生神金光大神取次への御礼の祭典であり、また、我々信奉者一人ひとりが、神さまと共に取り組み、助かり立ち行く「神と人あいよかけよ」の働きを世に現わすことを改めて自覚し、お誓いする祭典です。教祖金光大神様が生前にお仕えになっておられた「金光大神祭り」は、取次によって人を救い助ける生神金光大神の働きに感謝する日です。

  1873年十月十日、神さまは「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず。神仏の宮寺社、氏子の家宅、みな金神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受け。氏子、信心いたしておかげ受け。今般、天地乃神より生神金光大神差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたし候。」と、天地の道理から外れ、難儀をしている世と人々を救済するために、生神金光大神を差し向け、神と人とがあいよかけよで立ち行く世界を実現したいとの神願を、明確に指し示されました。

  金光大神さまは、天地金乃神の切なる願いである「神と人とをあいよかけよで立ち行く」人の願いを神に伝え、神の意志を人に取り次ぐためはたらきを取次によって実現するために、1859年10月21日に次のように神は金光大神に次のように、「此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」と難儀で苦しんでいる一を助けるために天地金乃神をたすけてくれ」と金光大神に「神と人とあいよかけよで助かる取次ぎ助ける。

  生神金光大神は、神と人との間にあいよかけよのはたらき合いを現す、教祖金光大神のいのちのあり方と、はたらきに対して、神から与えられた称号です。この信心の一切の営みは、生神金光大神を抜きに考えることはできませんが、とりわけ、神と人とを取次ぐはたらきを、そういいます。生神金光大神によって神が現れ、神が現れることによって生神金光大神のはたらきが意味を持つことになります。

次の「しょうことなしの信心」は真の取次のあり方です。

カバン持ちのばあちゃん

  私が若いころの話をさせていただきます。信心仲間にスウさんという方がいらっしゃいます。この方が初めてお参りしたのは、大変寒い冬の時期でした。偶然、私はお結界に座っておりました。偶然というのは、普段はお結界に座っていないからです。本当のことです。お結界にいることは、あまり一般的ではないと思っています。

  その時、スウさんというご婦人がやって来られました。彼女はただ参ってきたのではなく、さっと入ってきて、玄関でしっかりと座り、頭を下げてじっとしていました。私の教会の広前は、広前というほど大きなものではなく、お結界と入り口の間に座っている人と親近感を持てるくらいの狭い場所です。とにかく、彼女は上がり口に座って、じっと動きませんでした。

  私はお結界にいて、どうしようもない気持ちになりました。普通の人なら「こんにちは」や「こんばんは」と声をかけるはずなのに、彼女は何も言わず、黙っているのです。私も我慢できずに、「ようお参りでした」と言いました。これは当然のことです。「ようお参りでした」と言えば、初めての人が来たら、「ああ、初めての人が来られたな」と思って、ニコニコしながら言うものです。私もそのように言ったところ、そのご婦人はこう言いました。

  「よう参りません。おばあさんが行けと言うから仕方なく来たんです。」その時、彼女があのおばあさんの家の嫁だということが初めて分かりました。それで、私もどうしようもないので、お結界に座っていても何もできず、そばに行って、寒い時期だったので火鉢に火を入れて、その火鉢のところに座りました。

  「今日は寒いですね」と言うと、「私は寒くありません」と返されました。「でも、手は冷たいでしょう。こちらにお寄りなさい」と言ったら、「いや、私は苦労をしていますから、冷たいと言える余裕はありません」と言われました。「それでもこちらに来て、ちょっと火に当たりなさい」と言うと、「いや、結構です」と言われました。これには困ってしまいました。困った時には、金光様の先生が必ずすることがあります。それは、神様を拝むことです。

  仕方がないので、私はいつものようにお結界に戻り、神様へ「こういう人が参ってきていますが、私の手には負えません。どうぞよろしくお願いします」と祈念しました。その後、祈念を終えたと思ったので振り向いたら、彼女はまだそこにいました。彼女は少し頭を下げて、そのまますっと帰ってしまいました。これは何のことだろうと思いました。

  次の日、また同じ時間に彼女がやって来て、やはり入り口で座り、頭を下げたまま黙っていました。今回は二度と何も言いませんでした。「ようお参りなさった」と言ったら、「よう参りません」と返されました。もうその手は食いません。来たと思ったら、すぐに神様の方を向いて一生懸命に祈念をして、祈念が終わった後、また同じように少し頭を下げてすっと帰っていきました。これが何日も続きました。どうなるのだろうと思いました。

しかし、その人の思いが私には分かりました。この家は現在、非常に困難な状況にあり、主人は会社員でしたが、病気で入院してしまいました。おばあさんは信心を持っていましたが、心配のあまり寝込んでしまったのです。小学校の1年生と3年生の男の子を二人連れて、スウさんは自宅で内職をして生活していました。その上、スウさんも体が弱く、いつまで続くか分からない状態でおばあさんが寝込んでいたので、「金光様にお願いして、先生に頼んでくれ」と何度も言われたため、仕方なくやってきたのだと思います。それゆえ、「私にはそんな余裕はありません」と言うのは当然のことです。それが分かったからこそ、なるほどと思い、私は言葉を交わさなくても毎日彼女が来るのを見て、私も祈念に力を入れるようになりました。

  そのうちに、彼女が「こんばんは」と言ってくれるようになりました。黙って座るのではなく、「こんばんは」と声をかけると、彼女も「こんばんは」と返してくれるようになりました。そうするうちに、だんだん私のそばに寄ってくるようになりました。寄ってきて何を言ったかというと、日常生活の愚痴をこぼすようになりました。「どうして私はこんなに不幸せなんでしょうか。私は何も悪いことをしていないのに」と言っていました。このような話から始まり、次第にそれが神様へのお願いに変わっていきました。たとえば、「先生、私たちの家族はこれからどうなるのでしょうか」と言うのです。これがお願いです。愚痴からお願いへと変わったのです。

  その後、「先生、子どもが元気に育つでしょうか。子供だけは健康で大きくなってほしい」といったことをぽつぽつと私に投げかけてくれるようになり、私もそれについていろいろな話をすることができるようになりました。こうして、困ったときには神様にお願いをすることが繰り返しできるようになり、彼女と一緒に手を合わせて拍手をして神様を拝むようになりました。このような繰り返しが続きました。

  何年か経ったある時、これもまた冬の寒い日でした。雪がちらちら舞っていました。その時、彼女がやってきて、お結界で「先生、今日は相談があります」と言ったので、「何の相談ですか?」と尋ねたら、「いや、先生、相談と言っても、心配事ではありません。今日は本当に神様にお願いがあります」と言いました。「何なら」と聞くと、「先生、おかげさまで子供が大きくなりまして、大きい子がもう今年中学三年生です。中学を出たらすぐに勤めに行くと言っていますし、私も行ってもらいたいと思っています。高校には行かせられないと思っていましたが、昨晩、受け持ちの中学校の先生がやって来て、『進学はしない。すぐに就職する』と言っているのですが、親も承知していますか?」と聞かれました。「承知しています」と返事をすると、「そうですか。しかし、何とかならないでしょうか。お母さん、あなたの子供の成績を知っていますか?中学三年生の生徒の中で成績が一番か二番ですよ。これだけの成績を持っている子供を、せめて高校に行かせたらどうですか」と先生が頼みに来たのです。「考えてみます」と言って、自分自身をじっと考えましたが、どうにもなりませんでした。それで私のところに相談に来たのです。

  「でも先生、心配しないで、愚痴を言うのではありません」と言うと、「先生、今、私はお参りの途中で思いました。今までお参りをしながら、明日はどうしようか、どうしたら良いのかということばかりを心配していましたが、いつの間にか『子供を高校に行かせるかどうか』というお願いで参っていることに気づきました。これは本当にありがたいことです。愚痴を言うどころではなく、子供の高校進学をどうするかというお願いができるようになったのです。嬉しいことです。おかげを受けるということは、これが神様の恵みだと思いました。本当に心の中が晴れ晴れとしております。だから今日は、先生、愚痴ではありません。本当に自分にこういうお願いができるようになりました。ありがとうございましたという気持ちです。「先生、どうしましょうか」と言いました。

  私はその言葉を聞いて、初めの頃、「ようお参りなさった」と言ったとき、「よう参りません」と言われたことを思い出しました。今、彼女がこういうことを言うようになったのかと考えると、これは神様に向かう心、神様の心とつながったことを示しているのだと感じました。これが本当に神様に向かう心なのだと思います。何年もかかりましたが、この人にとって本物の信心がここから始まると考えました。私は神様を拝むのも忘れて、思わず「行かせよ、そりゃ。お前がそういう気持ちになったのなら、いかしんせい。お前が行かせなかったら、私が行かせるから」と言ってしまいました。

  当時、教会は本当に貧しかったので、周りの人々は「この教会はいつ潰れるだろうか」と言っていました。親が教会の新築の途中で亡くなったのです。教会といっても屋根があるだけで、中に入ったら畳はありませんでした。私は筵を敷いて、その上にお結界で座っていました。天井を見上げると、天井板はありませんでした。壁は荒壁のままで、敷居もなかったため、当然建具を取り付けることもできませんでした。そういった教会の状況でしたので、「私が行かせる」と無意識に言ってしまったのです。

  その後、改めて神様に「こういうことでございます。どうぞ行かせてください」とお願いしました。これは半ば強制的にお願いしたことになります——その後、彼は進学しました。

  当時、教務所を通じて金光教の奨学金制度がありましたので、その書類を作成して奨学金をお願いしたところ、本部の方で心よく奨学金を支給してくれました。さらに、母親が一生懸命働いて、もちろん私も元気を出して、高校三年間、無事に通いました。県立高校の工業科に進学しました。良い成績を収めた結果、ある大企業の本社に採用され、現在はそこでかなりの地位にいます。

  この時期のことを考えると、何とも言えない気持ちになりますが、その若者も今は45歳になり、子供が三人います。昨年、電話をかけてきて、「先生、子供が高校に合格しました。ありがとうございました」と言われました。その高校は、その地域で一番難しい高校でした。あえて子供が挑戦するというので、実は心配していましたが、無事に合格しました。「先生、息子が高校に合格しました」と言われたので、「ああ、そうか、おめでとう」と返事をしましたが、向こうも電話を切らず、私も電話を切らず、何も言わずに思いは同じです。つい私の方から、「今、お前が高校に入る時のことを思い出しているが、お前もそうだろう」と言うと、「はい、私もそのことを思っております。それを考えると、息子が大きくなって高校に入ったのが本当に嬉しいです。ありがとうございました」と言っていました。電話の向こうで——男ですから声は出しませんが、泣いているようでした。「私も思い出したら……いや、ありがたい。おめでとう、ありがたい」と言って、昨年電話をしました。

  お盆と正月には必ず帰ってきます。帰った時には、一番に家族揃って参ります。広前で子供が元気に暴れます。でも私は思います。「お前が小さいころにこの通りをしたが、お前の子供もよく似ている。やっぱりお前の子だな」と。家内が世話をするのは大変ですが、それでも嬉しいことです。嫁さんと子供を連れて教会に帰って来てくれます。そして、土産は決まっています。彼の会社は下着のメーカーで、私のパンツやランニングは、私はそういうものを買ったことがありません。しかし、昨年から事情が変わり、「先生、申し訳ありませんが、仕事が変わりまして、先生にはもうパンツを上げられません」と言われ、「どうしたら」と尋ねると、「先生には上げられませんが、奥さんには上げられます」と女性用の下着を持ってきてくれました。きれいなものを色々持ってきて、家内に渡してくれましたが、ありがたいことです。

  実は、この若者が——これは偶然のことです。昨夜、親が帰ってきて、「先生、息子が転勤になります」と言ったので、「それは偉い人になって転勤になるのは良いことだ」と言いました。「ですが先生、遠方です」と言われ、「遠方というとまさか外国ではないだろう」と尋ねると、「実は外国です」との返事がありました。「では、家族はどうするのか」と聞くと、「先生、単身赴任です」と言われました。

  そして今朝、両親と一緒に参って、「七月五日に日本を出発します。昨日お願いしようと思ったのですが、七月一日にお願いするのが良いと思い、今日参りました」と言われました。私は拝んで神米を渡し、「これをこうしてすぐに送ってください」と伝えました。偶然、今日の共励会でこの話をしようと思っていたら、今朝そういうことがありました。彼は偉い人になっています。

  だから、人間は神様の恩恵を受けてどこまで成長するかわからないものです。本当にありがたいと思います。ちなみに、このスウさんのご主人は元気になり、今では二人揃って教会の役員を務めています。スウさんは私の妻の手伝いをしてくれています。ご主人はいつも教会のために、一生懸命に取り組んでくれています。そして、わが家も立派に建てました。素晴らしい家を建てて、本当に幸せに暮らしています。ありがたいことだと思います。このように、私の仲間の一軒のお話をさせていただきました。

次号へ続きます。

こころの練習帳

019 家さんに感謝

私たちが日々寝起きして、生活を営んでいる家は、土台となる基礎をはじめ、

床・柱・壁・梁・天井・屋根と、それぞれ大切な働きをしてくれています。

そして、雨風や寒暖から守られ、快適に過ごせています。あらためて、

家の内外から手を合わせ「ありがとう」と感謝しましょう。

日めくり

.人の悪いことを、よういうものがある。

そこにもしおったら、なるだけ逃げよ。陰で人を助けよ。

人の悪いことやうわさを言う人の側で、一緒になってうなずかないで、

出来るだけ離れて、そっとみんなの助かりを祈らせてもらいましょう。

「人の悪口を言うってる人からは 離れたほうが良いよ」

 

.悪かったと自分に得心してお断りを申せば、

神さまは叱ってはくださっても、罰はお当なさらない。

悪かったと心の底から思えたら、神さまにすぐにお詫びしましょう。

神さまは親と同じ。叱りはするけど許してくださいます。

「悪かったと思ったら ごめんなさい」


.自分でしようとすると無理が出来る。

神さまにさせてもらう心ですれば、

神さまがさせてくださる。

何をするにも神さまと一緒ならば、安心です。

「自分一人でしようとしたら だめだよ~」


金光教ガーデナ教会、ロスアンゼルス教会からのお知らせ


朝の礼拝

11月3日(日曜日)午前9時11月6日(日曜日)午前10時より、ガーデナにある金光大神斎場にて生神金光大神大祭を仕えさせていただきます。ご家族、友人・知人をお誘いの上ご参拝されますようご案内申し上げます。


生神金光大神大祭

十一月九日日曜日、午前十時よりお仕えさせていただきます。


ガーデナ教会作業委員会勉強会

GCWCは、11月16日(日曜日)午前10時から午後2時まで開催されます。このグループに参加したい方は、埋ノ江師にご連絡ください。





 
 
 

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