Vol. 23 # 2
金光大神の信心
金光大神さまのみ教えに触れながら、皆さんと考えてみましょう。
金光大神さまは、「信心とは、わが心が神に向かうのを信心という。恩徳の中にいても、心に信がなければ、おかげはない」、「神の前に参って自分の思うことを頼むばかりが信心ではない。神へ参らないときに信心することがたくさんある」と、天地のはたらきの中に生きていることを悟り、いつでもどこでも心を神に向けていくのが信心だと説かれた。
信心における心のありかたの大切さについて、金光大神さまは、 「おかげが受けられるか受けられないかは、わが心にある。 わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる」、「天地の親神を信心するのであるから、天地のような広い心にならなければならない」
「『今月今日で一心に頼めい おかげは和賀心にあり』という見識を落としたら世が乱れる。神のひれいもない。親のひれいもない」と説かれた。
また、物事の真実を悟る心の目について、金光大神さまは、
「真の道を行く人は、肉眼を置いて心願を開けよ」、「信心は本心の球を磨く者である」、「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」などと教えられた。
信心をする心がけ
「信心するという心におかげはない。信心させて頂くという心におかげがある」
「神を信じる者は、何をするにしても遊ばせて頂くのである。広前の奉仕で遊ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせて頂いているのである。みな天地の間にうれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである」と語っている。
つまるところ、金光大神さまにとって、信心は、「信心する」というよりは「信心になる」というべきもなのです。心を神に向けての生き方を貫く信心が至りつくところについて、金光大神さまは、
「しんじんとは、信の心ではない。金光大神は、しんじんを神人と書く」と教えられた。信心して「神人」と呼ばれるような人間になることが、金光大神の信心の目指すところだった。
信心とおかげ
信心とおかげとの関係について、金光大神さまは、「信心はしなくてもおかげは授けてある」と、あらゆる人間に、天地の恵みとして、天地金乃神さまのおかげを授けているとしたうえで、
「信心しておかげを受けてくれよ」と、信心して受けることのできるおかげについて教えられている。
信心によって受けるおかげ
「おかげとはめいめいの真に映る影のことであるから、神に大きな真を受けてみよ、大きなおかげがわが身に頂ける。 小さな真で大きなおかげはもらえない。影は形のそうと決まったものである」と、神に向かう信心のいかんによって、おかげの現れ方が違うことを示した。
おかげには、まず、家内安全、病気治癒、家業繁盛など、願いことが成就するおかげがある。それは参ってくる人にとって切実な問題であったし、金光大神も、その願い成就に思いを傾けた。しかし、金光大神は、そうしたおかげばかりでなく、
「信心していれば、目に見えるおかげより目に見えないおかげが多い。知ったおかげより知らないおかげが多い。あとで考えてみて初めて、あれもおかげであった、これもおかげであったということが分かるようになる」と、信心していても、すぐには気づかない神のおかげが多くあることを説き教えられた。信心して心の目が開けることによって分かるおかげである。
また、「自分の思う通りを聞いて下さるのがおかげとは限らない。死んでおかげの者もあり、命をつないでもらっておかげの者もある」と願う人の思い通りになることだけがおかげではない、とも説いた。 神が授けるおかげは、人間の思いではかることができないものであり、それが分かるまでの信心を求めたのである。
また、ある参拝者に対しては、
「あなた方はちいさいことばかり考えているが、金光大神は、世界をこの道で包み回すようなおかげが頂きたいと思っている」と、信心による壮大なおかげを説き語っている。
さらに、ある事柄についてのおかげだけでなく、
「一心になって、真心をもって信心せよ。身の上に徳のつくおかげがある」、「信心は的なし信心ぞ。無的の信心ぞ」とも教えた。 的がないとは、信心によって何かを果たそう、成就させようという目当てがないということである。 日常の中で信心に基づく生活を求めることによって、おのずから身に徳がつくような在り方である。 いつも神と共にある生き方が、そのまま喜びであるような信心の求め方である。このように、信心にもおかげにも、限りなく深いものがあることを金光大神は教えた。 (金光大神より)
朝参り、清掃、節分行事、信徒会議
来る2月5日日曜日、9 時からご祈念が始まります。ご祈念後、教会の内外の清掃を皆で御用させて頂きましょう。
清掃後は、恒例の節分行事が行われます。豆を鬼に投げつけたり、撒いたりします。その後、恵方巻を「南南東」に向かって食べる伝統行事が行われます。その後、信徒会の会議が開かれます。
節分とは、漢字のままで「季節を分ける」ことを意味しています。季節は春、夏、秋、冬とありますが、季節が変わる日を立春、立夏、立秋、立冬と言います。そして、これらの前日が節分です。 節分が 2 月の立春の前日を意味するようになったのは、江戸時代以降になってからです。 昔は厳しい冬を乗り越えて春を迎えることは特別なことでした。 そのため一年の始まりが立春で、立春の前日の節分は一年の終わりを意味して、現在の大晦日と同じで特別な日だったのです。
金光教ガーデナ教会の二月月例祭
金光教ガーデナ教会における2月の月例祭は、第2日曜日 12 日、午前 10 時からお仕えさせていただきます。金光教ガーデナ教会の二月の月例祭は予定通り、取次ぎ広前にてお仕えさせていただきます。
北米南カルフォルニア地区セミナー
南カルフォルニア地域セミナーが 2022 年 2 月 25日土曜日の午前 10 時から午後 2 時まで開催されます。今年は金光教ランキャスター教会が主催する、南カリフォルニア地域セミナーにご招待いたします。会場は教会ランキャスター教会にて開催されます。
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