天地の声 令和七年六月
- Rev. Nobuharu Uzunoe
- 6 日前
- 読了時間: 6分
Vol. 25# 6

お詫びとお礼
わたしは3月16日に緊急入院し、生死をさまような大手術を受けました。10年前に入れた大動脈のステントがずれ、医師からは「生きているのが不思議」と言われ、3つの選択肢の中から腎臓の機能を失う可能性のある手術を選択しました。
手術後一時回復するも再手術となり、体の衰弱と苦痛から「死を選びたい」とまで思いつめる日々が続きました。しかし、長女が金光清治先生を通じ教主金光様にお取次ぎを願っておりました。清治先生は私にメッセージを次のように下さいました「信者さんはあなたを必要とされているが、神様がまだあなたを必要とされている」との言葉に心を打たれ、生きる希望を取り戻しました。
このたびは皆様にご迷惑とご心配をおかけしたことを心からお詫び申し上げます。 皆様のお祈りのおかげで、現在杖なしで歩けるまでに回復し、お結界に座れる喜びと、神様に抱かれて生かされているという実感を日々深く感じています。
敬具
埋ノ江信治
中山亀太郎-信心とおかげ
先日、私はMさんという身体の不自由な若い男性にお会いしました。
Mさんは、ある企業で重要な地位にあるお父様と、信心深いお母様のもとで育ち、何不自由ない生活の中で大学を卒業し、大手の炭鉱会社に就職されました。職場では優秀な技術者として将来を期待され、現場の作業員からも尊敬されていたといいます。家庭では美しい奥様に支えられ、まさに「人生で最も幸せな時期」を過ごしておられたそうです。
ところがある日、炭鉱で落盤事故に遭い、逃げる間もなく崩れた石炭の下敷きになってしまいました。救出された時にはすでに脊髄を強く損傷しており、運動神経と栄養神経の両方に障害を受け、腰から下の自由を完全に失われてしまったのです。まさに、幸せの絶頂から一転して、深い不幸の淵に突き落とされたのでした。
「同病相憐れむ」と言いますが、私もまた身体に障がいがあるため、慰めになればとM さんのご自宅に招かれました。
しかし、実際にお会いしてみて、私にはM さんを慰めることなどとてもできないと思いまし
た。たしかに、私も障がい者ではありますが、M さんが抱えておられる苦しみは、私の想像をはるかに超えていました。特に、若い奥様が懸命に介護されている様子を見た時、ご夫婦でありながらも、ご夫婦らしい生活ができない現実を思うと、私はしばらくお二人のお顔をまともに見ることができなかったほどです。
私自身、十七、八歳の頃、ある方からこう言われたことがあります。
「お前は両手と片足を失ったから中学に入学できたんだ。もし健康な体だったら、今ごろは親の跡を継いで炭鉱の作業員になっていただろう。そう考えれば、不自由な体であることに感謝すべきだ」
そう言って私を慰めようとしてくれたのです。しかしその時ほど、私の心が引き裂かれるような思いをしたことはありませんでした。
「たとえ炭鉱労働者でも、両手がある方がどれほど幸せかわからない。手のあるあなたに、手のない私の苦しみなど分かるはずがない」
そんな言葉が口元まで出かかりましたが、声にはならず、ただただ涙があふれました。
今では過去の苦しみもありがたく思えるようになりましたが、当時を振り返ると、やはり「相 手の立場に立つ」ということは非常に難しいことだと痛感します。
私がMさんを慰めるつもりで、かえって35年前の自分と同じような苦しみを与えてしまってはいけない。そう思い、Mさんの心を傷つけないよう祈りながら、一緒にたばこを吸い、食事を共にしながら、「信心とおかげ」について、自分の考えをお話しさせていただきました。
信心というと、「神さまに手を合わせてお願いすれば、病気が治る」「災難から守られる」といった、目に見えるご利益ばかりを求める方が多いように思います。もちろん、それも「おかげ」には違いありません。
しかし、そればかりを信心の目的としてしまうと、いつしか神様の御心から外れ、信心の根本ともいえる「無我」や「無欲」から遠ざかってしまいます。それはつまり、「神様に頼る」のではなく「神様を利用する」ことに他なりません。
戦争中にも、脊髄を損傷し、「余命30日」と宣告された方が、精神力で奇跡的に回復された例があります。また、五右衛門風呂で火を焚いてもらっている間に、神経が麻痺していたために足を大火傷してしまったという方も、今では手動自転車に乗って商売ができるまでに回復されたそうです。
どちらの方もこう話してくださいました。
「戦友たちは手が痛い、足がしびれると文句を言いますが、私には神経がないので痛くもかゆくもない。それがかえって助かっています。これは先生のお話のおかげです」
信心を続けることで、生命が内から生き生きと輝き出し、たとえ病気になっても、災難に遭っても、その中から「ありがたい」「救われた」と感じられるようになります。そして、心から湧き起こる無限の喜びと感謝の念こそが、本当の「おかげ」ではないかと私は思っています。
つまり、自分の命の中に「生き生きとした働き」がなければ、本当に助かったとは言えないのではないでしょうか。その働きを引き出す道こそが、信心だと私は考えています。
「あの家族はどうしてあんなに仲がいいのか」
「あの子はなぜあんなに立派に育っているのか」
「なるほど、あの家は皆で信心しているからだ」
そんなふうに言われるような信仰を持ちたいと、心から願っております。
食事の後、私はM さんにこうしたお話をさせていただきました。そして後日、M さんから喜びのこもったお手紙をいただき、私は心から安堵したのでした。
こころの練習帳 |
014 使った水はどこへ行く |
悪いことが起こるとつい人のせいにするのを、自分のせいにしてみよう。 息子の不注意で食卓お茶がこぼれ自分の服が濡れた。 「何してんねん」となるのを 「お父さんが食卓の隅に湯飲みを置いていて悪かった、 ごめん」、すると「僕も気をつけなくて、ごめん」。 お互いに「ごめん」が言い合えます。 |
金光教ガーデナ教会、ロスアンゼルス教会からのお知らせ
ガーデナ教会朝参り、清掃、信徒会会議
六月の朝参りは、6月1日は、午前9 時からです。礼拝、清掃、昼食の後、信徒会会議を行います。信徒会議はどなたでもご参加いただけます。
六月の月例祭
六月の月例祭は六月八日、午前十時より執り行われます。
キーワード
あいよかけよ
神と人とのはたらき合いを示すことばで、神のはたらきが人のはたらきの中身となり、人のはたらきが神のはたらきの中身になるという、相互にはたらきの中身になり合うことをいいます。あいよかけよによって、両者の間に神が生まれ、神と人とが共に立ち行くことができます。神と人とのあいよかけよを基本にして、人と人、人と万物との間に、同様なあいよかけよがなりたちます。
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