天地の声 令和七年七月
- Rev. Nobuharu Uzunoe
- 5 時間前
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Vol. 25# 7

ご神米
剣先形に折った紙包みに入れて、広前で参拝者に渡される米のこと。日本の伝統的な主食の
米に、天地の恵みの象徴的な意味付与がなされたものである。信奉者はこれを紙包みのまま、めいめいが定めた場所に奉じ、天地の神を拝する目途としたり、天地の恵みを心身に受けることとして、これを儀礼として食したりする。
清浄に水で洗って、神酒をふりかけたのち乾燥した米を用いるので、「お洗米」と始め呼ばれていた。また、紙包みの形状から、剣先とも呼ばれるようになり、後に金光宅吉が、「ご
神米」と定めた、と言われている。
明治二年(1869)正月に、紙包みの用紙購入の記述があり、それ以前からすでに、ご神
米は参拝者に手渡されていたもの、と考えられる。
金光大神にとっては、この語は、天地金乃神の体という意味である。それは、社や祠に鎮座
するものではなく、人の住まいとするこの天地全体が神の体である、と説かれる。「天地書付」「神号書付」「ご神米」「幣」などを神体として祀ることも、当時、信奉者の間で普通
になされていたようであるが、金光大神はそれは、拝み祈る目当てであって、神体そのもの
ではない、と教えた。→神、天地金乃神、天地
理解II、高橋富枝50 私が初めて参拝した時、すでにご神米を下げられるようになっていた。「神米は手を漬けずに七へん洗うもので、それでしゃんと水が澄む、それを干しあげたと
ころで、お下げしたお神酒をかけて、再び干すものである」と金光様から教えられた。
お供米ーおくまい
「ご神米」、「お洗米」、「お剣先」、「およね」、とも言う。神酒とともに、天地の恵みの象徴・シンボルの意味を持ったもの。金光大神は取次を始めた頃から、白紙で剣先型に折った包みに入れて、参拝の人々に授けていた。人々に授ける前に神前に供えた米を指す場合もある。
覚帳13-1 明治二己巳正月仰せつけられ候。お供米、歳書帳の紙、さらに(新たに)買い改め申し候。お洗米。
理I 市村光五郎、三―1ー8 吉備津様より、戌の年におかげを授けるぞと仰せられ、取次ぐ人お供米の上に弊を垂れれば、弊に豆と米がつき。吉備津様より戌の年に弊からのものをお渡しある時に、『戌の年は一心と金神に信心いたしておれよ。一生、まめで五穀を授けてやる』とお言葉あり。
理II市村光五郎9ー5 そこから、吉備津様がお許しくださり、「金神を信心すれば、お供米を授けてやる」と仰せられて、米と豆とが幣帛について、それをお下げくださった。
お洗米ーおせんまい
ご神米に同じ。米を水で洗い、水を切った後、神酒を振り掛け乾燥さして使用するところからきた言葉。
覚書17ー1 明治二己巳正月仰せつけられ候。お洗米、歳書帳の紙、さらに(新たに)買い改め申し候。
理解I 山本定次郎山定64、 この広前にはご祈祷の札もなく、ほかほかの神様とは違う。天地の神様が、「お洗米で人は助かる。銭金で人を助けるとすれば、貧乏な人が困る
理解III 尋求142、 「お千枚とはお千枚ぞ。神信心してお千枚を千枚いただけば、身に徳を受けることができる。
理解III 尋求13ー1~2、 お洗米は神さまのおかげがついてござるのじゃから、粗末にしてはならぬぞ、このお洗米一粒で、死ぬるような病人でも、おかげで助かるのじゃもの。金光様は、「神信心をしてお洗米を千枚いただけば、身に徳を受けることができる」とまで言うてござったぞ。ありがたいことじゃないか。
理解III、尋求教語録13 お洗米には神さまのおかげがついてござるのじゃから、粗末にしてはならぬぞ。このお洗米一粒で、死ぬるような病人でも、おかげで助かるのじゃもの。金光様は、「神信心をしてお洗米を千枚いただけば、身に徳を受けることができる」とまで言うてござったぞ。ありがたいことじゃないか」
理解III、尋求教語録13 お洗米には神さまのおかげがついてござるのじゃから、粗末にしてはならぬぞ。このお洗米一粒で、死ぬるような病人でも、おかげで助かるのじゃもの。金光
様は、「神信心をしてお洗米を千枚いただけば、身に徳を受けることができる」とまで言う
てござったぞ。ありがたいことじゃないか」
理解III、尋求教語録142「お洗米とはお千枚ぞ。神信心してお洗米を千枚いただければ、身に徳を受けることができる。無礼粗末と知ってすれば、主から取るぞ、知らず知らずにすれば七墓築かするぞ。しかし、神一心に取りすがれば、神から手は放さぬ。氏子から取り外すのが多い」
理解II、金光萩雄15 「山の中や道の途中で思いがけない傷をしたという時などに、さあ、
お洗米、さあ、お神酒と言っても、無ければしかたがない。そういう時には、水があれば水
を、やはり神様の御物と思っていただけば、お神酒と同じことである。それもなければお土
をいただけ、お土なら、どんな山の頂にもある」と常に教えておられた
お剣先―おけんざき
理解I 市村光五郎一―47 金光様のお話に、「これまでは、神様をみな商法にしておるぞ。
お剣先でも、何文かん文と言うておる。金光は商法にはせん」
ご神米に関するエピソード
1)教会で修行を志すことになったきっかけ
私は幼いころから、教会の行事に参加することが日常の一部になっていました。学校を卒業
したあと、時間に余裕があったため、祖母の家に遊びに行くような感覚で教会に寝泊まりす
るようになりました。
ある日の朝のことです。突然、ひとりの若いお母さんが、大声で泣き叫ぶ赤ちゃんを抱えて
教会に駆け込んできました。
その日、朝食の準備をしていた母親が、味噌汁の鍋を低いテーブルの上に置いたまま、その
場を少し離れたそうです。すると、まだ1歳にも満たないその赤ちゃんが、つたい歩きでテ
ーブルに近づき、鍋に手をかけて自分の方に引っ張ってしまいました。味噌汁は赤ちゃんの
体にかかり、重いやけどを負ってしまったのです。
すぐに異変に気づいた母親は、赤ちゃんを近くの小児科クリニックへ連れて行きました。し
かし、そこでは対応できないほどの重傷で、皮膚はただれ、触れるだけでズルッとめくれて
しまう状態でした。
お母さんは藁にもすがる思いで教会に駆け込み、お結界に座っておられた梶原すえ親先生に助けを求めました。先生は、神前に供えられていたご神水とご神米の中のお米をとり、ご神水に浸したその米を、神さまにご祈念しながら赤ちゃんのやけどの患部にそっと貼っていかれました。
あれほど激しく泣いていた赤ちゃんが、しだいに泣きやみ、やがて静かに眠りについたのです。
その一部始終を目の当たりにした私は、「神さまは本当におられるのだ」と、心の底から感じました。そしてこの出来事をきっかけに、教会で修行し、教師になる決心を固めたのです。
その後その赤ちゃんはすっかり回復し、やけどの痕もまったく残らず、今では母親となって
熱心に信心を続けておられます。
中山亀太郎 - 神が願わせられるおかげ
私がいまご用をさせていただいているのは、「金光教東京寮」という学生寮です。教会や信者さんのご家庭から、約四十名の学生さんをお預かりしています。
学生たちは、東京都内の大学に通っている若者です。中には「親に言われて仕方なく我慢している」という者もいれば、「下宿よりも費用が安いから」と、割り切った理由で入寮している者もいます。
けれども、さすが信心のある家庭に育てられただけあって、多くの学生は次のように語ります。
「寮はアパートとは違う。創立の精神と50年の伝統がある。この寮でなければ得られない何かを、この4年間で吸収しなければ、寮生活の意味がない。」
そうして、真剣に“道”を求めているのです。
こうした学生たちは、月に2回、教祖伝記の輪読会や、信心についてのディスカッションを行っています。しかし多くの学生は、こう言います。
「“おかげ話”を聞かされるのは嫌だ。」
そこで、私は次のように語りました。
「君たちが嫌だという“おかげ”とは、いわゆる『ご利益』のことではないですか?
私も若いころは、『現世利益ばかりを説く宗教は迷信だ』と思っていました。“おかげおかげ”と口にする人たちを、“ご利益信心だ”と批判していたのです。
しかし、その私が今では、毎朝、朝参りを続け、“おかげがいただきたい”と一心にお願いしています。それは、世間で言う“おかげ”と、金光教で説かれている“おかげ”がまったく別物だと分かったからです。
現代の社会は、非常に複雑な問題を抱えています。その上、私たちは貧困や病気、災害など、避けようのない苦しみにも直面します。
東京に暮らしていると、日常的に事故や災難のニュースを目にします。ルールを守っていても、予期せぬ事故に巻き込まれることがあるのです。
災難は、いつ、どこで、誰に起こるか分かりません。それが“人生”というものであり、思い通りにいかないのが人生です。ところが私たちは、それに抵抗したり、焦ったりして、ますます難儀に陥ってしまう――これもまた、人間の姿です。
では、その“難儀”や“苦しみ”から逃れるには、どうすればよいのでしょうか。
それが「信心」の力なのです。
「おかげをいただく」というのは、単に苦しみや問題が“なくなる”ことではありません。また、それを“諦める”ことでも、“克服する”ことでもありません。
苦しみの中にあっても、それが気にならなくなり、それに耐える力をいただき、さらにそこに生きがいや感謝を感じられるようになる――
その苦しみの奥底に、「われ生かされてあり、われ恵まれてあり」という天地の道理に目覚めること――これこそが「おかげを受けてありがたい」という状態ではないでしょうか。
この道を開かれた教祖様以来、歴代の金光様が取次いでくださっている「人間の立ち行く道」とは、まさにこのような“生き方”を意味しているのだと思います。
「立ち行く」とは、人生そのものが正しく成り立ち、進んでいくこと。つまり、これが「おかげを受けてくれい」と神様が私たちに願われている、その“願い”なのです。
私の話を聞いていたある学生が、こんな質問をしてきました。
「先生、神様の願われる“おかげ”ということが、少し分かってきた気がします。でも、多くの信者さんは、病気を治してほしいとか、問題を解決してほしいという願いで信心しているのではないですか?」
私はこう答えました。
それはその通りです。病人は、病気の回復を願うでしょうし、生活に困っている人は物質的なおかげを望むのも当然です。そうした願いがきっかけで信心を始める人も少なくありません。
そして実際に、奇跡のようなおかげを頂かれる人もいます。
以前、四国のある教会で講演をしたときのことです。私は、自分の体験を話しました。
――子どもの頃、汽車にひかれて両手と片足を失い、貧しい中で育ち、「自分は世界一不幸な人間だ」と思いつめた。自殺を試みたこともあった。でも母の信心に導かれ、いまでは「自分ほど幸せな人間はいない」と思えるようになった――
その話を聞いていた、長年右膝が曲がらずに苦しんでいたあるご婦人が、深く感動されました。
「私は、これほど信心しているのに足のおかげが頂けないと、神様に恨みごとばかりを言っていた。でも、両手も片足もない人が“幸せだ”と話されている。私は何と不足なことばかり言っていたのだろう……」
彼女は心から神様にお詫びし、改めて信心に向かわれたのです。するとある朝、目が覚めると、それまで曲がらなかった右足が曲がっていたというのです。
本人はもちろん、周囲の人たちも「奇跡だ」「おかげだ」と、大いに喜ばれました。
これは一体どういうことでしょうか。
心の不平不満や悩みは、身体にも悪い影響を与えます。しかし、精神的な苦悩が解けたとき、体の不調までもが癒されるということがあるのです。
これは、パブロフの条件反射の理論や、精神と血液の関係に関する研究からも裏付けられています。心と体には深い結びつきがあるのです。
神様が願われている「立ち行く道のおかげ」をこうむることで、結果として「奇跡的なおかげ」を頂くことがある――私はそう信じています。
ですから皆さんも、「おかげ話なんて非科学的だ」と一概に否定せず、神様が願っておられる「人間の助かり」「立ち行く生き方」とは何か、それがどう進展するものか、一度考えてみてください。
私はこう話を締めくくりました。
20歳そこそこの若者たちが、人生のいちばん大切なことについて語り合える。そこにも、神様が人間に「願わせられている」尊い何かがあるのだと、私は感じています。
こころの練習帳 |
015 自分が悪者になる |
悪いことが起こるとつい人のせいにするのを、自分のせいにしてみよう。息子の不注意で食卓お茶がこぼれ自分の服が濡れた。「何してんねん」となるのを「お父さんが食卓の隅に湯飲みを置いていて悪かった、ごめん」、すると「僕も気をつけなくて、ごめん」。お互いに「ごめん」が言い合えます。 |
金光教ガーデナ教会、ロスアンゼルス教会からのお知らせ
ガーデナ教会朝参り
七月の朝参りは、7月6日は、午前10 時からです。通常の時間とは異なることにご留意ください。
七月の月例祭
七月の月例祭は7月13日、午前十時より執り行われます。
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