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天地の声 令和四年六月

Vol. 22 # 6

絶対の信

あなたは天地金乃神様を本当に信じていますか?と聞かれたら、信心している方々のほとんどが「もちろん信じてます」と答えるでしょう。では、信じている度合いは? 「苦しいときの神頼み」から「私の人生すべてを、ご神意のままに」と、人それぞれと言えるでしょう。先日、ガーデナ教会GCWC信心研修会で下記について討議した金光大神のご理解を紹介します。

ご理解III片岡次郎史郎編19 「天地金乃神は天地を一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるけれども、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。すべて、神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ」

「ままよ」の意味は、「なすべき方策が無いことを自覚し、物事を神に任せる」のときに言う意味。つまり。神を心から信頼する心です。しかし金光大神は「ままよとは死んでもままよのことぞ」と死ぬという意味は、自分には何もない、できないことに気付く。しかし命だけはある、神さまのおかげで命があることは違いない。神さまのおかげあっての自分であることに気づくと、自分の力、考え、経験などは神様の前では何も無いのです。だから神に全てをおまかせのです。すると、わが心に神が生まれ、神と共に生きる生活が始まるのです。

天地書付に「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え。おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめ」とあります。「一心に願え」、「頼め」とあります。これは「神さまに一心に祈り、結果は神さまにお任せします」という意味です。

金光大神の五男、金光宅吉さまの信心の姿勢を紹介いたします。

金光宅吉さま(金光四神)は、安政六年(1859年)六月、六歳の時、九死に一生を得たことを「親さまの一心の願いにより助けていただいた」として、早くから金光大神さまの信心に心を傾けていた。青年期のこととして、次のような伝えを紹介します。

ある寒い冬の日のこと、宅吉さまは、金光大神さまの命によって浅尾へ使いに出られた。その日はどんよりと曇った、今にも雨が降りそうな空模様でした。出かける支度をされてから、宅吉さまは、曇り空なので金光大神さまに、「傘を持っていきましょうか」と伺うと「傘は持っていかなくてよろしい」との返事だったので、そのまま出かけられた。

ゆく途中、玉島を過ぎたあたりから、ぽつりぽつりと雨が落ち始めた。見知りの茶店の主人が、傘を貸そうとしてくれたが、宅吉さまはその好意に感謝しながらも、「きょうは親さまが、傘はいらないと言われたから」と断り、浅尾へ向かった。

用向きが済んで引き返すころには、雨は一層強くなってきた。浅尾でも傘をすすめてくれる人があったが、同じように丁寧に断って、道中ずぶぬれになって夜遅く帰ってこられた。

帰って事の次第を報告すると、金光大神は宅吉の心根をいたく喜んだという。一番上に来ていた単衣を脱いでみると、それが雨除けのようになって、その下は少しもぬれていなかった。

金光大神は道中雨が降るのは分かっていたのになぜ「傘は持っていかなくてよろしい」言ったのか。宅吉さまはなぜ雨に濡れても金光様の言葉を守り通し、人々の親切を断り続けられたのでしょうか。

宅吉さまには、雨に濡れる、濡れないと自分の都合を優先するのでなく、「金光様大神さまの言いつけを第一にすることが宅吉さまにとっては大事なのです。自分に都合が良かろうと悪かろうと、金光大神さまの言葉に従うこと。これが正に「しんでもままよ」なのです。


金光教ガーデナ教会お知らせ

朝参り、清掃、信徒会議

来る六月五日、午前九時からご祈念が始まります。 信心は神様を信じるだけでなく、神様から信じていただけることが大事です。 ご祈念後は、お掃除をしたのち、朝食をいただき、信徒会の会議をさせていただきます。会議どなたでも参加できます。あなたも参加しましょう。


六月月例祭

来る六月十二日は午前十時より月例祭をお仕えさせていただきます。祭り日は、信心を忘れないための大切な日である。この祭り日を忘れさえしなければおかげがある。忘れたらおかげはない。親の恩をさすれないための法事のようなものである。何事にも恩を忘れてはならない。


ガーデナ教会教義研修会(GCWC)

五月二十二日午前十時から二時まで。 金光教教典ご理解III、尋求教語録の教えを探求の勉強会。


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