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天地の声 令和五年六月

Vol. 23 # 6


与えられた命のはたらきがあるからできる

私たちが当たり前と思うことは実は当たり前ではない。全てが天地からのお恵みであり、天地のおはたらきがすべての物を育ませているのである。 その恵みやはたらきの道筋を金光大神さまは、天地の道理と説いた。その天地の中に生かされて生きているのである。ということを教えてくださっています。教祖金光大神さまは(天語2)「天地は生き通しである。天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである。」と教えられている。

また、(天語13)「天地のことをあれやこれやと言う人があるが、人間では天地のことはわからない。天地のことが人間でわかれば、潮の千もとめられよう」と教えられている。天地の恵みやはたらきが当たり前のようであって、実は当たり前ではないのです。これらのことを自覚せず、さらに自分の分の力で何事もするから天地への無礼になるのです。 (天語71)「今は学問の世の中で、理屈はよく言うようになったけれども、天地と神との恩義をしだいに知らないようになったから、難儀がしだいに多くなっている」

金光鑑太郎さまは、ご自分の生活で神に生かされていることを、例をもってお示しくださっていることをご紹介します。

与えられた命のはたらきがあるからできる

 私はあたりまえのことを、ただ、あたりまえのこととして、何とも思わないことということは、いけないことだと思います。当たり前のことを、軽く考えてはならぬと思うのであります。

 からだを動かすという、ごくあたりまえな毎日の生活の現場のことを考えてみましても、朝起きて顔を洗います。洗うのは、申すまでもなく自分でありますが、私は、洗うということが先にあるとは思いません。

 顔が洗える、顔を洗うことができる条件、恩恵があるから顔が洗えるのであります。水があり、歯ブラシ・歯磨き粉・手ぬぐい、こういうものがあり、そしてまた、自分のからだ、手足が動けるから洗うことができるのでありまして、洗うということが先にあるとは思いません。

 勉強する、勉強することができるからする。 料理を作る、料理を作ることができるから作る。 一事が万事このように考えてまいりますと、自分がしておることは、することができるから、動くことができるから、することもでき、動くこともできる。 自分がやるにはちがいないが、やること、することができる条件、恩恵を抜きにしては何一つすることができぬという、これが本当のことであり、ありがといことだと思うのであります。

 そしてそのことから、さらに進んでもう一つ、私は、動くとか、考えるとか、歩くとか、働くとか、そういう生活ができる人間のいのちというものを考えずにはおられないのであります。

 いのちがあるから生活をしておる、これも、あたりまえのことでありますが、生活ができる命、その命のはたらきが与えられてあるということを、改めて深く思わしめられるのでございます。

 自分の赤ん坊のころのことは覚えておりませんが、赤ちゃんを見るたびに、与えられたいのちの働きというものを、奇しく、尊くまさにありがたいものに思うのであります。乳を吸います。吸う技も、吸い方も、学校で教わるように教わったものではありません。あのような働きが、命に与えられているのであります。

 はうことも、教えられなくても自然にはうようになり、茶碗、箸を持つけいこもしだいにでき、恩恵の中であらゆるけいこを続けて、それぞれ私どもは、今日にいたっておるのだと、私は、そのことを身に染みて深く思わしめられておるのでございます。

 私の末の孫、まだ一歳で、ものもよく言いませんが、それでも、私の言うことが通じるのであります。障子をしててくださいと言いますと、閉めてくれます。 私の言うことを耳で聞いて判断し、動いて、歩いて行って、閉めてくれるのです。何でもない当たり前のことですが、考えてみますと、いのちにあたえられている働きがあってのことであります。 孫と遊べるのも、孫も、祖父の私も同様に、命に与えられている働きを頂いているからだと思うのであります。




わがいふこと一歳の孫に通ずるといふ

賜びしいのちの奇しきはたらき




 私は、こんな歌も、自然に口にのぼって来るのであります。

 幼子が育って行くのを見ておりますと、私は歩くようになる子を見て、ああ、今日は何歩歩いたというて喜びます。ものが言えるようになれば、片言をひとこと言うことができても、それを大変喜ぶのでございます。

 このような時に、決して何歩しか歩けなかったとか、これだけしかものがいえなかったとか、いうようには申しません。これだけ歩けた、これだけ物が言えたと喜びます。幼子に与えられたいのちの働きがあってのことと喜ばずにはおられないのであります。

 このように思うてまいりますと、これだけしか食べられなかったとか、これだけのことしかできなかったというより、これだけ食べれた、これだけできたと、すべていのちの働きがあってのことだと、どんなことでも喜ばせてもらわねばならぬと思うのであります。同じことでも、これを不平に思う思い方と、また喜んでいく思いあると思います。

 人間尊重と言いますが、人に与えられたいのちの働きを尊重しなければならないのは、申すまでもございません。その尊び重んずるという心の働きも、ならないのは、申しまでもございません。その尊重という、尊びおもんずるという心の働きも、また、命にあたえられているのでありまして、私は、このいのちの働きを尊び重んじて大事にして、過ちのないように、粗末なことにならぬように、少しでも世のお役に立たせてもらいたい、このように願っておるのでございます。


金光教ガーデナ教会ご案内

6月4日 日曜日は、朝の礼拝と教会の清掃が行われます。 午前9時に教会に来てください。 清掃の後は信徒会の会議が行われます。 午後1時から会議委員会を開催いたします。

6月11日 日曜日は、午前10時から金光教ガーデナ教会の月例礼拝が行われます。  昼食後は金光大神伝研究会を開催します。 第 4 章について説明します。このセクションを読んで、意見や質問があればグループに提出してください。


金光教ロスアンゼルス教会ご案内

6月24日 土曜日、正午より金光教ロスアンゼルス教会長、露木大久先生のお葬式が開催されます。

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