Vol. 23 # 3
春 季 霊 祭
来る3月12日、午前10時10分より、金光教ガーデナ教会祭場に於いて、恒例の春季霊祭を執り行います。このご春季霊祭は金光教ガーデナ初代教会長後藤勲先生ご夫妻の長年の教会・教団のご用のご功績を称え、お礼を申しあげ、並びに教会発展の為に尽された布教功労者の霊様、教徒・信徒の霊様方、その家族・親族の遠津祖先達諸々の霊様方、教会にご縁ある方々の御霊様達、更には戦没英兵士の霊様達をお招きし、これらの霊神様あって今日の私どもの命を頂き、ご信心を頂いていることにお礼申し上げ、霊様方の道立ち、更に高いご霊徳を頂かれることをお願いさせていただく祭典です。従って如何なる用があっても都合、繰り合わせを蒙られ参拝されますよう。「参れば参っただけのおかげが頂けます」と金光大神様は教えておられます。当日12日は春季霊祭を前午前10時に、後藤先生ご夫妻、武田先生ご夫妻並びに納骨堂に鎮座されている御霊様の前にて墓前祭を仕えさせて頂きますのでご案内いたします。
朝参り、清掃、教会行事計画会議
来る3月5日に9時より朝のご祈念を始めさせて頂きます。その後ご霊祭の準備のため、教会の内外の清掃をさせて頂きます。清掃後食事を頂き、教会行事のプランや会計報告などが話し合われます。この会議はどなたでも参加できますので、お時間がある方や有志ある方々はぜひご参加されるようご案内申し上げます。
南カルフォルニア地区セミナー
南カルフォルニア地区セミナーは、天候不安定のため延期されました。場所は、同じランキャスター教会です。日は三月十八日土曜日です。時間は十時からです。これも神様からのお繰り合わせです。一人でも多く参加しましょう。
一心
天地金乃神様と金光大神さまが、、私たちに求められている信心に一心があります。一心は信心の中でもとても大切なことです。そこで今月は、皆さんと共に、一心について金光大神の教えに触れながら考えてみましょう。
1. 天地に一筋
天地に一筋とは、神にもすがるが他の手段にも頼ってみる、というのではなく、外から迷わされることなく、自分のよりどころを一つに据えるよう、心を一つに整えること。 (参考:天地は語る221)
2. 心に迷いなきこと
たとえ天地金乃神に一筋になったとしても、信心を進める過程で、先を急ぎあせってうろたえる心、先行きへの不安などさまざまな迷いが出てきて、ひいてはそれが、神への不信にまでつながります。そうして自分の心の中に生まれるさまざまな迷いに惑わされず、確かなものを見つめるよう、心を一つに整えること。 (参考:天地は語る224)
3. わが心の神の出現を促す一心
一心不乱、一生懸命という意味での「一心」。命がけの真剣さをもって一つのことに打ち込むことではあるが、金光大神の一心不乱の「一心は」わが心の神の出現を促す一心、神と自分とをひとつにつなぐ一心。そのことを目指して、心を一つに整えること。 (参考:天地は語る223)
4. 神と人間の心が同じになり、神の願い(伝えたい:神・人あいよかけよの道理、実現:あいよかけよで共に立ち行く世界)したい
神と一つ心になるという意味での「一心」。そこでの一心とは、神が伝えたいと願っておられ、実現したいと願っておられることを、人間も同じ心になって願い、その向きへと生き方を整出ていくこと。神が伝えたいのが、神・人あいよかけよの道理であり、実現したいのがあいよかけよで共に立ち行く世界である。それに向かって一筋に突き進んでいくことが一心である。 (参考:天地は語る222)
* 天地書附にある「一心に」という意味合いも、もちろん、こうした四つの意味合いを含めて、人々に訴えかけている。
天地は語る
221.神があっての人間、人間があっての神であるから、病気災難をはじめ何事でも、非常と平常とにかかわりなく神に願いをかけよ。信心とは、常日ごろ、神の心のようになるのが信心である。手を合わせて拝むばかりが信心ではない。 一心とは、一つの心と書く。二心のうろたえ心を出さないで、天地金乃神に一筋に取りすがるのが一心である。十分なおかげを受けるには、一心でなければならない」
222,「これまで、神がものを言って聞かせることはあるまい。どこへ参っても、方便で願い捨てであろう。それでも一心を立てれば、わが心に神がおられるからおかげになるのである。生きた神を信心せよ。天も血も昔から死んだことはない。金光大神が祈るところは、天地金乃神と一心である」
223.「思う念力岩をもとおすというが、信心する者が一心を出して永えば、どんなことでもかなえてくださる」
224.「うろたえ信心をするな。早くおかげをうけたいとおもってうろたえるのは、近道をしようと思って知らない道でうろたえるのと同じことである。金光大神の信心は大道を行くようなものである。一心になって信心せよ」
仁科志加さんが、金光大神さまによって取り組まれた「一心」を紹介します。
慶応二年十二月二十四日夜、夫松太郎がにわかにさしこみ、その夜は一時治まりはしたが、それからついに病床に打ち伏した。そこで、翌年正月二日、金光様の広前に参詣し、その日から日々お参りいたして、祈願しておった。
ある日の金光様のご理解に、「備前岡山の士族の子供らが寄り合って、ともに遊んでいた時、その子供のうちの一人が竹光の刀持っているのを他の子供らが知り、『お前は竹光の刀を持っている。それが何になるのか』とあざけった。すると、その子供は『ばかを言え。そんなら、ともに勝負をしよう。しかし、だれ一人も命を失ってはならないから、あの岩を切って、ともに勝負をしよう』と約束をし、ほかの子供らは、みな有名な刀でその岩に切りつけたが、いずれも刀の刃が折れてしまった。そこで、竹光の刀を持った子供は『お前らはどうしたのか。これを見てくれ』と、竹光の刀でその岩に切りつけた。すると岩はまさに二つに分かれたので、ほかの子供らはみな感心したという。
まことに一心というものはえらいものであるが、その方はまだ一心が足らない。仁科松太郎も二月八日には、昼の丑か夜の丑かに、まことに一命が危ない。一心が足らないと、後で悔やむぞ」と仰せられた。
それから、いっそう励んで信仰をしてみても、「まだ信心が足らない。二月八日が来るぞ」とご理解くださった。ある日、金光様が、「一生懸命に信心しないと、取り返しのつかないことができる」
と夫の病気について言われるので、「どのようにしたら神様のおかげをいただけますか」とおたずねすると、
「人に教えられてするような信心ではおかげにならない。自分の腹から練り出した信心でなければおかげにならない」と仰せられた。
ついに二月七日、金光様は、「卯の年(仁科志加)、明日という日が絶体絶命である。神様に一心の届く信心はできないか」と仰せられた。 帰り道、どうすれば一心の届く信心ができるかを考えながら帰っているうち、裸参りをしようと思い、母に話すと、いったんは反対された。しかし、「一生連れそう夫のため、気が違ったと言われてもかまわない」という決心をし、ちようど来合わせた夫の姉の斎藤里須も「弟のために」と、また下女も「あるじのために」と言って、三人が行くことにすると、西側の分家のおいの浜蔵が「女ばかりで間違いがあってはいけないから私がついて行く」と言い、結局四人で行くことになった。
どういうふうにするかを話し合い、私が「裸になって、回しを締め、腰に注連縄を張って、近くの厄神様で水をかぶり、道中お祓をあげながら、駆け足で参りましょう」と言った。そうして、四人で参ると、
「卯の年(仁科志加)、今日は神に一心が届いた。松太郎の年の病気も、さっそく全快をさしてつかわす。その方は、まことに一心の定まる女である」とおほめくださった。
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