Vol. 22 # 10
取次とあいよかけよ
昨今、お道ではよく取次の道とか、あいよかけよで助かる道とか申します。しかし取次とあいよかけよの関わりを、意味が解らずに安易に使っている人が多いと思います。そこでこの度はこのことについて少し説明しましょう。このことが理解できるともっと信心が解り、おかげもスムーズに受けられるようになりますよ。
神と人と
1.神は人間のいのちとはたらきのもとであること、 2.神は人間に限りない慈しみを与え、神と人とは「人あっての神 神あっての人間」の関係にあること、 3,神のいとし子であること。
人間と天地は、存在・はたらきの根本的な原理によって結ばれている。それにもかかわらず、現実には、人間は、そのことを知らず、それに背理し、難儀に陥っている人間の現実との断絶を取り結ぶよう、神が金光大神に要求要請されたのが、「取次」という営みなのです。
「天地は語る」より 神への無礼
70:人間は天地の間に生きておりながら、そのおかげを知らない。神仏の宮寺も人間の家屋敷も、みな神の地所である。そのわけを知らないで、方角日柄ばかり見て無礼をし、前々の巡り合わせで難を受けている。 72:今は人代と言ってわが力で何事もしている。神が知らせてやることにそむく者がある。神の教えどおりにする者は神になる。昔は神代といい、今は人代である。難儀なるもわが心、安心なるのもわが心からである。
その際、神の願いは、人に天地の道理を伝えることありで、人の願いは、あくまで現実の難儀の解決にある。そのため、その食い違い、間隙を生める「取次」は、人間の難儀を手掛かりに、神の意図する思いを伝えることになるのです。 具体的には、人間の難儀な状態を聞き、それを神に祈り、金光大神の教えによって神の願いと、その願いに基づく人間のあり方を伝え、難儀解決への道をつけることになります。
取次は、神の願いが人間に届き、人間の願いが神に届き、神の願いと人間の願いとが共に立ち行くことが、現実の動きとして実現していくことに、その目的があるのです。言い換えると神の願いに沿って人間の難儀が道づけられ、人間の難儀の中に神の願いが感得されるという、両方の緊張関係が十全に満たされていくことが、神・人共に立ち行くことになります。
ところが昨今の現実の取次の営みの中では、その目的がはっきりしなくなるところがあります。人の目から見れば、取次ぎは、難儀な状態を取次者に頼み、その解決への道をつけてもらい、おかげを受けて解決がつく道程と、どうしても映りがちだからです。それほど人の視点は難儀に傾いており、神もまた、人間の難儀解決に力を注がれ、過分なほどのおかげを下さるのです。そのため取次の目的は、ややもすると「人間の難儀解決にある」とだけ受け取られる危険性も生まれて来ます。
もし、取次ぎの目指すものが、単に人間の難儀の解決であるならば、それは、いかほど行き届いた取次であっても、「人間の願い成就」の方途にすぎず、取次ぎ本来の目的は矮小化されてしまうことになります。そうではなく、取次ぎとは「神願、人願とを共に立ち行かせるもの」であって、その両者を合わせて取次の成就というのであり、それこそが取次の目的であることが確認されなければなりません。
神願と人願とを共に成就させる実践原理は、「神・人あいよかけよで共に立ち行く」という言葉で表現されます。「あいよかけよ」という言葉は相互のかかり合いを示す表現ですが、本教では、神・人共に立ち行くという目的を実現する実践的方法として、重い意味を持っています。
取次と、あいよかけよのかかわり。
教典用語辞典「福島義次書」より あいよかけよ
備中地方の古い方言。元来は、重い荷物を天秤棒を肩に二人で担いで行くとき、調子を合わし、力を揃えるために双方が掛け合う掛け声に由来する言葉と伝えられている。この掛け声を合わすことで、一人では不可能な重い物おも動かすことが出来るという意味合いから、この言葉は、神と人との関係性を表現する言葉として、主として「お知らせ」の中に表現された。人間の神への信の深まり方によって、神が神として人の世を助けるという働きを現わすことになり、それによって人がまた真実人として、つまり生神として生まれ変り、世の助かりを願い生きる人としての働きをすることが出来ることとなる、そのような神と人との信仰による働き合いの関係、いわば依存性をこの言葉は示唆している。「氏子あっての神、神あっての氏子末々繁盛いたし、親(神)にかかり子(人間)にかかり」とか「氏子あっての神、神あって氏子、子供のことは親が頼み、親のことは子が頼み、天地のごとし」という表現などは、上記の神と人との相依性(互いに頼り合って生きていく.助け合って生活する)を示して、「あいよかけよ」の意味するところを言い当てようとしたものである。
つぎには、「分けみたま」との関連です。神・人あいよかけよを成り立たせるのは、人間に与えられた分けみたまです。人間の分けみたまは、神の本霊の一部ですから、両者は本来響き合い、つながり合う関係にあります。その意味では、神と人とのあいよかけよというより、神の本霊と人間の分けみたまとのあいよかけよと言うべきでしょう。しかし人間は、必ずしも分けみたまの指示どおりには動いてはくれません。分けみたまの出現を妨げる、相いれない動因を含みこんで、神と人との分けみたまとがどうかかわりあうかが、あいよかけよの中身になります。
もう一つの面は、取次の目的を「難儀の救済」に置くことと、「あいよかけよの実現」に置くこととの違いです。 取次は人間の難儀を救済することにとどまるものだとすると、それは、人間の願いだけを成就させることであり、とりわけその人個人の願いのみをかなえることになります。それに対して、取次ぎは神・人あいよかけよを実現することだとすると、それは、神の願いと共に立ち行かせることであり、神の願いの中身である人助けもそこに含まれることになります。難儀を通して神の願いを手渡せる、自分のもっている神に目覚める、神の願いに生き、わが心に神が生まれる、人を助けて神になる、などと言ったことも、すべて取次のはたらきに含まれる。
取次が求めているのは、神・人あいよかけよ、およびその延長としての人と人、人と万物とのあいよかけよを実現することであり、それを果たすことが出来れば、究極の目的としての神・人共に立ち行くことが実現されることになります。
取次は、神・人あいよかけよが実現されるについて、不可欠のものです。そればかりか、取次ぎの目指すものを、従来の「人間の難儀の救済」から「神・人あいよかけよの実現」に置くことによって、取次ぎ自体の意義が拡充されてきます。矮小化された感じのある取次が、本来の大きさを回復します。取次の目的が「神・人あいよかけよ」の実現にあることを確認することは、取次そのものがはっきりし、生き生きしてくることを意味しているのです。
お知らせ
金光教北米
2023年度南カルフォルニア信奉者大会準備委員会会議
2023年度北米教区カンファレンス、2023年度のカンファレンスは、南カルフォルニア地にて開催される予定です。大会の準備委員会の会議が、来る十月八日土曜日午前十時よりおこなわれます。
金光教ガーデナ教会
月例祭並びに月霊祭
十月九日日曜日は午前十時より十月の月例祭並びに月霊祭をお仕えいたします。時間の都合を神様よりお繰り合わせ頂きぜひ参拝させていただきましょう。「参れば参っただけのおかげはある」
「農家から創業者へ」ご伝記金光大神勉強会
このグループは 十月の礼拝の後に再開し、第 3 章の終わりについて話し合い、第 4 章に進みます。金光大神ご伝記を読みながら、信仰、金光大神、または文化的/歴史的慣習についての質問や考えを書き留めておいてください。 十月九日にお会いできることを楽しみにしています。
金光教ロスアンゼルス教会
十月の月例祭並びに月霊祭
十月二十三日日曜日午前、十一時よりロスアンゼルス教会広前にて、十月の月例祭並びに月霊祭をお仕えさせていただきます。 祭典後はこのお道の信心について皆様と共励会をさせていただきたいと願っております。 日頃このお道の信心に疑問を持たれている点、解らない点、など多くのご質問を受けて皆さんと共に信心を深め、今後ますますおかげを蒙られることを願っております。十月二十三日にぜひお会いしましょう。
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