Vol. 22 # 3
春季霊祭をお仕えし、直会を頂いた後、ご伝記金光大神の勉強会が仕えられます。この勉強会は教祖は名を金光大神という。その名は神から与えられたものである。生きたのは、江戸時代末期から明治にかけての大きな変革、動乱の時代だった。そのなかにあって、前半生を一農民として送り、多くの苦難に出会いながらも、次第に人間を超えた大いなる物、神とのつながりを実感するようになった。そして、人間一人一人は、心の位置に尊いものを持った存在であり、皆等しく神のいとし子ととらえ、人間は神によって、生かされて生きていくのが、道理にかなった在り方であるした。また、社会のゆがみを奇ゆがみを見据え、因習から人々を開放して、人間と社会全体の助かりを希求し続けた。
第一章は金光大神の出生と生い立ち、その当時の風習や習慣、文化、地域の信仰などによって苦しむ金神信仰などが記してある。ここでは特筆として第二章の焦点を照らす。一八五五年文治は四十二歳を迎えた。この年は彼にとって厄年である。文治は厄晴れに家に歳徳神をまつって一年の幸せを祈り、氏神社、祇園宮、吉備津宮、西大寺観音院などに参拝し人並外れた、入念な参拝だった。ところが四月二十五日になって、文治は床に伏す身となり、次第に病状が重くなった。
二十九日の夜のことである。文治の家に身内の者が集まり、文治の義弟に当たる古川治郎を先頭に立てて、神々に病気全快の祈願をした。すると治郎に神がかりがあり、「建築、移転について、豹尾神、金神へ無礼している」と、語気も激しくお告げがあった。それに対して、その場にいた妻の父、古川八百蔵は、みなに代わって、これも語気激しく、「当家において金神様のお障りはない、方角を見て建てた」と返答した。八百蔵にしてみれば文治がこれまで、人一倍厳密に日柄方角を守ったことを知っていた。無礼などあろうはずがないと確信していた。すると「それなら方角を見て建てたら、この家は滅亡になっても、亭主は死んでもかまわないか」と、さらに厳しい神からのお告げが返ってきた。方角を見さえするば、後はどうなってもかまわないかと詰聞されて、八百蔵には返す言葉がなかった。
そのやり取りを聞いていた文治は、建築、移転について無礼しているとのお告げに、はっと胸を突かれるものがあった。長年、問い求めていたことに神が初めて応答された。やはり、あの建築が神にご無礼になっていた。ご無礼をしたこと、相すまないことをしたこと、それだけが頭の中に渦巻いた。その時、岳父の「当家においてお障りはない」とのこと言葉が聞こえてきた。とっさに文治は、「なんということを言われるのだろうか」と思い、おそれ多さに身の震える思いがした。岳父の思いがけない言葉に対して、逆に、神に自分の真意を申し上げねば、という心が動いた。 その瞬間、今までふさがっていた文治ののどが急に開け、ものが言えるようになった。 文治は病床にあって神に胸の内を申し上げた。「ただいま岳父がもうしたのは、なにも知らずに申したのでございます。このたびの建築に当たり、してはならないと言われたのを無理にお願いして、方角を見てもらい何月何日といって建てましたが、狭い家を大きい家にしましたから、どの方角へご無礼しておりますか、凡夫で相分かりません。方角を見て済んだとは、私は思いません。以後、ご無礼のところ、お断り申し上げます」 この時の神からの、「それなら方角を見て建てたらそれてよいのか」という問いかけは、方角を見るかどうかにとどまらない、もっと大きなことを伝えようとしていた。文治が苦しい息の下から、「方角を見て済んだとは、私は思いません」とお断りした言葉には、まさにその点を感じ取り、神の思いに沿いたいという文治の必至な思いが込められていた。 その時、思いがけないことが起こった。文治がお断りした声が終わった途端、隣の部屋から、治郎が神のお告げを伝えた。
「戌の年、文治、其の方は良い。よし、ここまで這いながらでも出てこい。其の方は行き届いている。正月元日に氏神社へ参って来て、手を合わせてどのように頼んだか。氏神をはじめ神々はみなここへ来ている。その時『当時四十二歳、厄年。厄負けせぬようにお願いします』と頼んであろう。本来なら熱病にかかるところを、熱病では助からないので、のどけに神がまつりかえてやったのである。信心の徳をもって神が助けてやる」 「吉備津宮に参拝した時も、二度のおどうじがあり、もの案じしながら帰ったであろう。あれは病気の知らせをしてやったのである。信心五月一日には霊験を授けてやる。今晩のうちに金神をはじめ神々へお礼に心経を百巻奏上せよ。また、妻は七日の間衣装を着かえて、石鎚の神へごちそうとし香、燈明、それに五穀を供えよ。日天子が、戌の年の頭の上を、日々正午には舞って通ってやっている。戌の年、一代、壮健で米を食べさせてやる」 治郎が告げ終わると、手に持っていた御幣がが、そこにあったへぎ盆の上は引き付けられように下がり、供えていた大豆と米が、御幣について上がった。 「これを盆に受けて、かゆにして戌の年に食べさせよ」 と重ねてお告げがあった。盆で受けると、ついていた大豆と米が、ぱらぱらと落ちた。隣の部屋からやっとの思いで出てきていた文治も、この不思議な光景を目にした。
これまでの文治と金神との間柄を振り返ってみると、かって文治の意識を大きく締めていた金神は、世間でたたり神と恐れられていた神だった。 しかし文治にとっては、祟りが問題になるとしても、どうすれば、金神の祟りをまねくような過ちを犯さずに済むかが問い求められていた。その意味で、金神は、絶えず生き方を内面から問いかける神として文治に働きかけていた。
それでも道は開けなかった。文治が金神の思いとつながるには、過ちを犯さずにすむよう、実意を尽くしぬいたうえで、なお、これまでよりどころとしてきた一切のものを放す必要があった。文治はお断りの中で、「凡夫で相分かりません」と、また「これで済んだと思いません」と申し上げ、今までの自分の判断や行いの至らなさをお断りした。そこまで神のお告げをひたすら受けきった分にに、金神は初めて、自らの真意を受け取ることのできる人を見出した。そこに、金神とのつながりが生まれた。
そのうえ文治は、この時、人間を守りつける様々な神に出会った。氏神、吉備津神宮の神、石鎚の神、その他の神々である。これらの神々は、固有のはたらきをもって、人間の助かりを支え守るとされる。しかし、手厚い祈願を込めても、願いが届いたものかどうか、文治は知る由もなかった。ところがこのお断りを通して、金神とつながりを持つ同時に、神々のはたらきがにわかに現れた。
こうした神との出会いの体験に始まり、やがて、文治の信心する神は、次第にその姿を明らかにすることになり、後には、「天地金乃神」へと神明が定まっていた。
春 季 霊 祭
来る3月13日、午前10時10分より、金光教ガーデナ教会祭場に於いて、恒例の春季霊祭を執り行います。このご春季霊祭は金光教ガーデナ初代教会長後藤勲先生ご夫妻の長年の教会・教団のご用のご功績を称え、お礼を申しあげ、並びに教会発展の為に尽された布教功労者の霊様、教徒・信徒の霊様方、その家族・親族の遠津祖先達諸々の霊様方、教会にご縁ある方々の御霊様達、更には戦没英兵士の霊様達をお招きし、これらの霊神様あって今日の私どもの命を頂き、ご信心を頂いていることにお礼申し上げ、霊様方の道立ち、更に高いご霊徳を頂かれることをお願いさせていただく祭典です。従って如何なる用があっても都合、繰り合わせを蒙られ参拝されますよう。「参れば参っただけのおかげが頂けます」と金光大神様は教えておられます。当日13日は春季霊祭を前午前10時に、後藤先生ご夫妻、武田先生ご夫妻並びに納骨堂に鎮座されている御霊様の前にて墓前祭を仕えさせて頂きますのでご案内いたします。
朝参り、清掃、教会行事計画会議
来る3月6日に9時より朝のご祈念を始めさせて頂きます。その後ご霊祭の準備のため、教会の内外の清掃をさせて頂きます。清掃後食事を頂き、教会行事のプランや会計報告などが話し合われます。この会議はどなたでも参加できますので、お時間がある方や有志ある方々はぜひご参加されるようご案内申し上げます。
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