Vol. 24# 7
中山亀太郎 - 幸せになる道
(一)幸せと不幸せ
私は、母の信心と母の苦労とを通して、いろいろ教えられてきました。ただいまお話ししたように、人一倍恵まれぬ、不具と貧乏の、どん底生活をしてきたのでありますが、これを少しも不幸せだったとは思っておりません。かつては不幸せだったと思ったことはありましたが、現在の私は、不幸せと思えなくなっただけでなく、非常に幸せを感じております。この世の中で自分ほど幸福な者はほかに無いであろう、とさえ思わせていただけるようになったのであります。
私の幸せであるわけをお話しする前に、ちょっと、幸せとか不幸せとかいうことについて、私の考えを聞いていただきたいと存じます。
世間では、少しばかりの苦労があり悩みがあったり、わずかばかりの不自由がありますと、
「私は不幸せだ、不運だ」
と、悲しみかこつものであります。「なんの因果で、私はこんな苦労をしなければならないのだろうか」と、愚痴をおっしゃる方があります。
その人の身になって考えてみますと、まことに同情に耐えないご苦労があるのでありますが、たいていの人は、自分で、不幸せである、不運であると考えることによりまして、いっそう自分自身を暗くし、取り返しのつかぬような不幸せに沈んでいくのであります。
しかし、信心の世界では、とても耐えられないほどの苦しみや悲しみを、かえって幸せと考え、神さまのおぼしめしが無くては、死ぬこともできぬと感じ、静かにその境地を味わっている人もあります。
世の中は思うようにならぬものであります。世の中どころか、自分の身体はもちろんのこと、自分の心さえ思うようにならぬ事もあります。ところが、その思うようにならないものが、信心の世界では、思うように‘させていただくことができると思います。
よく世間では、なんでもかんでも運命だと言いまして、運のよしあしということを、詮議立てる人があります。他人が出世したり、財産でも作ったりしたのを見ては、
「あの人は運がよいのだ」「自分はなんとしてもうまく行かない。これは運が悪いのだ。運命なのだ」
「自分はなんとしてもうまく行かない。これは運が悪いのだ。運命なのだ」などという人があります。
運命という文字をさだめと読む人があります。世の中のことは、みな、前の世からの約束で、生まれる前から決まっているのだ、という見方があります。これは、あきらめに徹して、不平や、呪いから解放されるように思われますが、人生創造の喜びや、明朗な希望を与えられないうらみがあるように思われます。
この、あきらめるという生活には、安住はあるかもしれませんが、消極的でありまして、生活をはつらつたらしめて、苦難を乗り切るという積極性が欠けているように思われます。あきらめの幸福というのは、一種の不幸せになるおそれがあるのではないかと思います。
私は、運命は初めから定められているのではなく、お互いの心のうちから生み出し、創り出していくものだと思います。運命の運は、運転運送の運で、はこぶと読むのですから、運命は定められているのでなく、心で運ぶものだと思っています。
立派な幸せを運ぶには、正しい信心、真の信心がなくなってはなりません。強い精神力と、勇敢なる正しい努力と必要であります。
正しい努力というのは、満足の中に働いていくことであります。
「私は、こんなに働いているのに--------------」
「私は、こんなに努力しているのに-----------」
などと、愚痴や不平がありましては、努力そのもの、働くことそのことさえ、苦痛になります。これではほんとうの幸せは運べないと思います。
ほんとうに努力を楽しむという満足の気持ちは、神さまが拝めなくては、容易に得られないと思います。ありがたい、もったないと思う感謝と満足の心から、努力を楽しみながら精進すれば、必ずしあわせな運命が開拓できると思います。
チャンス、チャンスと、よく言いますが、たとえ、チャンスが目の前にぶら下がっていても、努力のない人の目には、入るものではありません。第一、そのチャンスをどんなふうに使ってよいか、見当がつかないだろうと思います。
神様にお願いするとか、お繰り合わせをお頼みするということは、棚からぼたもち式におかげを当てにすることではありません。
頼めば頼むほど、願えば願うほど、誠心誠意、神さまのお心にお沿いするだけの信心生活をさせていただくことに努力することが大切であります。
わたしは不幸せをなくする方法、いわゆる運命開拓法として、第一に正しい努力、第二に強い意志、第三に正しい信仰、そして第四に宗教的信念をもった明朗な生活が必要だと思います。
正しい信心生活ができれば、不幸せはなくなります。ところが、なくならない場合もあります。
私には両手がありません。片足がありません。手がないとか、足が無い状態を、不幸せというのでしたら、私は一生涯、不幸せをなくすることができません。しかし、私にはまだ右の足が一本残されてあります。私には、まだ幸せが少し残されてあります。
どんな不幸せな人にも、どこかに少しは幸せが残されてっるものです。目の見えない人には、まだ耳が聞こえます。目もみえない耳も聞こえない。その上に手も足も動かぬという人がいると思いますが、その人でも、お菓子を食べるとおいしいと感じ、おふろに入れば気持ちがよいのであります。かように考えてゆきますと、どんな不幸せな人でも多少は幸せなところがあるでしょう。
わが身の不幸を嘆くひとは、不幸なところばかりを見て、ありがたいところに気が付かないのであります。私は、残っている幸せを見つけ出して、それをふろしきのように広げて、その中に不幸せをつつんで、外へ出さないようにすればよいと思います。
暗いところで、マッチ一本つけても明るいように、幸せの光が真上から輝けば、不幸せの影は消えていきます。
「信心なければ、世界が闇なり」
とのみ教えがありますが、信心をさせていただけば、暗黒の世界が光明の世界に、不幸が幸福に、難儀がおかげにさせていただけるのであります。
つづく
こころの練習帳
003 ゴミ箱を感謝箱に
「今日はゴミの日。 何でこんなにゴミがたまるの!」と、よくある光景です。 でも考えてみると、どんな物でも最初からゴミではないですね。いつの間にゴミになるのでしょう。使い切り、役目を果たした時かな。それならゴミで終わらせないで、お世話になったものとして感謝してお別れしたいですね。
金光教ガーデナ教会、ロスアンゼルス教会からのお知らせ
朝参りと信徒会会議
7月7日(日)午前9時より朝の祈りを捧げます。ご祈念後は、教会内外の清掃を行います。清掃後はブランチをいただき、信徒会の会議が行います。ご興味のある方はぜひご参加ください。
七月の月例祭
7月14日(日)午前10時から、ガーデナ教会メディテーションホールで月例礼拝を行います。礼拝と昼食の後、午後12時から午後1時まで、農民から開祖へ 金光大臣の伝記についての勉強会を行います。参加される方は全員、自分の本を持参してください。
GCWC 勉強会
GCWC は、7 月 21 日日曜日の午前 10 時から午後 2 時まで会合し、「農民から創始者へ」の討論問題に取り組みます。
北米カンファレンス
恒例の北米、全カンファレンスは来る七月二十三日から二十三日まで行われます。
ユースキャンプ | 二十三日から二十六日 |
ヤングアダルトセミナー | 二十四日から二十六日 |
ファミリーキャンプ | 二十四日から二十六日 |
スピリチャルセミナー | 二十五日から二十六日 |
信奉者大会 | 二十六日から二十八日 |
今年のテーマは「日々の信仰の中で神の働きと愛を示し、確実に受け継いでいくことで、神と人との関係に目覚めさせる」です。
詳細については、kcnaoffice@konkofaith.org までお問い合わせいただくか、ランキャスター教会の Toshio Ota先生 (714-390-5948) までお電話ください。
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