Vol. 25# 3

中山亀太郎 - 家庭教育は母の愛と祈り
私は、よく刑務所へ教誨にまいります。どこの刑務所も若い方が多いようで、少年刑務所は全国に十二か所ありますが、いつも超満員のようであります。
どうして、このように青少年の犯罪が多いのでしょうか。これを戦争の影響、敗戦の結果だという人があります。もとより戦争の影響も確かにあります。
各国の歴史を見ましても、戦前と戦後の統計は、明かに戦争そのものから来る、社会的な原因が考えられますが、日本ほど犯罪の多い国はないという人もあります。かつてはイタリアが犯罪者の多い国とされていましたが、現在では日本だろうと言われます。
戦前は、年に五十万件の犯罪であったのに、戦後には、その四倍の二百万件が毎年数えられております。しかも、青少年の非行は、終戦後既に十年も過ぎておりますのには、年ごとに、増加するばかりであります。
刑務所、少年刑務所及び少年院などの矯正施設にまいりまして、そうした人たちにお目にかかるたびに、感じられますことは、その少年、その青年の家庭に信仰がないということであります。
宗教のない家庭はありませんが、宗教があるということは、信仰があるということにはならないと思います。終戦直後には、仏教とキリスト教と教派神道とをあわせて、わずかに四十幾つの教団だったと思いますが、信教の自由ということになりまして、今では文部省に宗教法人の届けなどを出しまして認証を得ているものが、八百種類にも上がっております。文部省に届などを出さないで、宗教活動をしているものが、このほかに、七百くらいのあるようにおもわれます。
これだけの宗教があって、なぜ信仰がないのかと申しますと、お経を唱えるだけが、信仰ではありません。また、神さまの前で手を合わせて礼拝するだけが信仰でもありません。
信仰とは、神とか仏に対して、一切をお任せすることと、その宗教の教えを生活の全面にわたって実行実践していく稽古をすることだと思います。
生活の全面とは、夫婦の愛情も、親子の関係も、仕事も、政治も、教育も、そして食事の仕方からお金の扱い方、風呂の入り方から夜のやすみ方にいたるまでの、家庭生活、社会生活一切でありまして、それが道に基づいてなされ、教えを頂いてのなされ方にならなければなりません。
家の中に神棚があり、仏壇がありまして宗教的な行事がなされていても、教えが実践されていなかったら、信仰があるということにはならないと思います。
宗教教育ということは、前々から言われていましたが、実際は行われていませんでした。国会におきまして、宗教的情操教育決議案が上程され、決議されまして、小学校三年以上の社会科において、なんらかの意味で、自己の有限性を自覚し、人間以上の実在を信ずることによって、人生に対処する態度を養い、人格の性向をはかることになったのであります。
しかし、学校が行う宗教教育は、教育基本法の第九条によりまして、一定の制限があります。宗教教育の意味は重視されながらも、実際には宗教教育の課程はほとんど無に近く、高学年に至るまで、宗教にかんするものは何も与えられないことになるようであります。
こうして若い世代において、宗教にかんする無関心から、さらに「神をおそれぬ」反宗教的傾向を生むことになるのでありますまいか。
学校で行われる宗教教育にあまり期待をかけるよりも、むしろ、本格的な宗教教育を家庭で術ように心掛けることが大切だとおもいます。家庭生活をとおして、宗教的な生活態度というものを養うことにしなければならないと思います。
子どもは大人の真似をするものであります。
「子供はおとなの鏡である」という言葉があります。
お父さまが、朝晩、神前で手を合わせて敬けんな祈りをささげ、お母さまが、仏前に頭をうなだれてお勤めをなさるというように生活ができておれば、二つ三つのがんぜんない子供には、神様も仏さまもわからなくても、お父様のそばで手を合わせ、お母さまのそばで、頭を下げるものであります。
これが目から入る教育であります。もとより、こうした形だけであってはいけません。家庭生活全体が信心生活になっている中で、育てるということでなければなりません。
「三つ子の魂百まで」
ということわざがあります。幼い子供の心が一生涯を支配するものであります。
「子供の最初の先生はお母さまである」
「子供の最初の学校はお母さまの胎内である」
などと申します。
昭和二十四年六月十日に、教育基本法の精神にのっとって、社会教育法が制定され、狭義の家庭教育と社会教育とをあわせて、広義の社会教育ということになりましたが、わが国では、学校教育、社会教育、家庭教育と三つに分けていました。
この三つの教育が三位一体となって、初めて人間教育が可能なのでありまして、あたかも五徳の三本の足のようなものであります。五徳は三本の足がそろっていてこそ、役に立つのであって、一本欠けていましても、一本短くても、ぐあいが悪いのであります。
こういう極言は許されないのでありますが、主として、学校教育は頭を作り、社会教育は姿かたちをつくり、家庭教育は魂を作る教育である、と言ってよいのではないでしょうか。
人間は、たとえ頭がよくて、容姿端麗、八頭身でありましても、魂が腐っていては、なんの値打ちもありますまい。その魂をつくる教育場が家庭であり、その教育にあたる先生がお母さまであります。
あるPTA座談会で、
「私には学問がありませんから、子供の教育なんか、とてもできません」と、おっしゃった方があります。
わたしは、子供の学習を見てやるのがお母さまのつとめだとは思いません。お母さまの大切なものは愛情であると思います。もとより、愛のないお母さまはいらっしゃいません。みな、子供がかわいいのであります。
犬や猫は、その子をなめながら、育てますが、これは動物の本能でありまして、かわいい、かわいいと言って、ただかわいがるだけの動物的な愛であってはなりません。
ある時、ある婦人刑務所へ、お話に行ったことがあります。そこで七年の刑を受けておられる方にお目にかかりました。実にやさしいお顔をしていらっしゃるので、こんなご婦人が、どうして七年も服役しなければならぬような、大それたことをせられたのかと思いました。
此の方は、主人が亡くなられたので路頭に迷い、こんな貧乏な生活では、子供がかわいそうだと思って、母子心中をしたのであります。
子どもは死んでしまいましたが、お母さんの方は助かりました。この夫人は殺人犯に問われ、七年の判決を言い渡さされたのであります。その動機は、子供がかわいそうだという親心からだったのでありますが、これでは本当の母性愛だと申せません。
動物的な、本能的な愛が、清められ、深められ、高められていかなければなりません。何によって清められ、何によって深められ、何によって高められるかともうしますと、それが信仰であると思います。信仰によって自覚された、聖なる愛になることだと思います。
母の愛は、子供に、正しい感化を与え、強い感激を与えるものでありまして、母から受ける感激というものは、子供の生涯を通して忘れることのできない、光となり、力となりまして、強く正しく生き抜かせるものとなるのであります。
家庭教育の場において、その中心となるものは、なんと申しましても、神の愛と母の祈りであると信じます。
つづく
こころの練習帳 |
011 履物にお礼を言う |
あなたのお気に入りの靴はありますか。 そして、今日はどこまで出かけますか。 靴がなければどこへも行けません。大切な人にも会えません。 大切な場所へも連れていってくれる存在も心を寄せてみませんか。 「今日もお世話になります」と、言葉にできたら準備完了です。 さあ、出発! |
金光教ガーデナ教会、ロスアンゼルス教会からのお知らせ
朝参り、清掃、信徒会会議
3月2日は、午前9時から朝の礼拝を行います。朝の礼拝の後は、一緒に教会の内外を清掃して心を磨きましょう。昼食後は信徒会会議を行います。どなたでもご参加いただけます。
春 季 霊 祭
来る3月9日、午前10時より、金光大神祭場に於いて、金光教ガーデナ教会、金光教ロスアンゼルス教会の合同春季霊祭を執り行います。このご春季霊祭は金光教ガーデナ教会並びに金光教ロスアンゼルス教会の初代教会長ご夫妻の長年の教会・教団のご用のご功績を称え、お礼を申しあげ、更に教会発展の為に尽された布教功労者の霊様、教徒・信徒の霊様方、その家族・親族の遠津祖先達諸々の霊様方、教会にご縁ある方々の御霊様達、更には戦没英兵士の霊様達をお招きし、これらの霊神様あって今日の私どもの命を頂き、ご信心を頂いていることにお礼申し上げ、霊様方の道立ち、更に高いご霊徳を頂かれることをお願いさせていただく祭典です。従って如何なる用があっても都合、繰り合わせを蒙られ参拝されますよう、ご案内申し上げます。下記の霊神簿にあなたの家族のご先祖の名前と期日を書いて教会に提出してください。
ガーデナ教会作業委員会(GCWC)
ガーデナ教会作業委員会は三月十六日午前十時から午後二時まで開催されます。
ロサンゼルス教会大掃除
皆さん、現在、ロスアンゼルス教会は広前と家宅の掃除をしています。おかげさまで、作業はほぼ完了しています。最後の大掃除として、3月23日と24日の午前9時から正午まで行います。皆様のご協力よろしくお願いします。
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