Vol. 24# 11
生神金光大神大祭 ご案内
金光教ガーデナ教会並びに、金光教ロスアンゼルス教会の生神金光大神大祭が、十一月十日第二日曜日の午前十時より、金光教ガーデナ教会斎場にて仕えられます。
生神金光大神大祭とは、教祖様のお徳を称え、教祖様が現わしてくださった永世生きどおしの生神金光大神取次をあらためて頂き、私たちもその働きを現わしていくことを祈願する祭典です。 祭典には、ご家族や友人などを誘われて、ぜひお参りされるようご案内申し上げます。
生神金光大神
教祖様が天地金乃神から明治元年(1868)九月二十四日に授けられたご神号(神としての名)です。教祖は、早い時期から「大谷の生神様」と、人々から呼ばれていた。そのときの「生神」とは、あらたかな霊験力を持っていて神とあがめられる人、という意味合いだった。
それに対して金光大権現自身は、「私は生神ではないのに、人が生神と名をつけてくれる」「私は生神ではない、肥かたぎ(百姓)にすぎない」という姿勢をとり続けていた。もっとも、信心して神になるということは、金光大権現のかねてからの願いだった。そこで、参拝してくる人に、神を助けて神になることを教え諭していた。神は、取次によって生きながらに神のはたらきを現し、人を助けて神になるという信心を日々実現している金光大権現に対して「生神金光大神」という神号を授けられたのだった。
生神ってなに?
神になる 生神金光大神が生涯をかけて求めてきた人間のあるべき姿は、「神のいとし子」「人あっての神、神あっての人、あいよかけよで立ち行く」「神人」などの言葉をもって表現されている。そこに貫かれているのは、人間は神とのかかわりで生き、その身に神のはたらきを表し得るもの、というてんである。
「信心して神になることを金光大神が教えてやる」と説いたように、信心はそうした人間に内在している神のはたらきを現し、神になることである。 金光大神が歩んできた道は、まさに神になる道だった。
そして、「あなたがたが神さまのお子でありましょうが。生神ということは、ここに神が生まれるということであります。わたしがおかげの受けはじめであります。あなたがたもそのとおりにおかげが受けられます」と、自分だけが特別な存在ではなく、だれもが神の子であり、神になる道が開かれていると説き続けた。
神になるとは、神の教えに基づいて心を開き、生かされて生きている真実を悟り、自身が助かる在り方を続けることを指している。
それとともに、「教えてもらっておかげを受けたら、人にも教えてあげなければ、神へのお礼にならない。信心する者の役目がすまない」と、受けた神のおかげを人に伝えていくことも、神になる中身である。それは、人の身に神のはたらきを現すことになる。
さらに金光大神は、「人を一人助ければ、一人の神である。十人助ければ、十人の神である」と教え、人を助けることがそのまま神になることに通じるとした。
中山亀太郎師 幸せの理由
私の第二の幸せは、不自由を不自由と思わないことです。もちろん、一本足しかないので、全てを自分でこなせるわけではありませんが、帯と袴のひもを結ぶこと以外は、ほとんど人の助けを借りずに日常生活を送ることができます。
歯を磨くときは歯ブラシを使い、洗面所で顔を洗い、食事は箸やスプーン、フォークを脇に挟んで行います。髭も自分でそります。小学校や中学校のころは足で字を書いていましたが、大学に入ってからは口に鉛筆を加えてノートを取るようになりました。残っている三センチほどの腕で傘をさし、自転車にも乗ります。
趣味は写真を撮ることでしたが、戦災でカメラを失ってからはやめてしまいました。しかし、写真の焼き付けや、引き伸ばしは自分で行っていました。また、戦災でミシンも失いましたが、東京に家族と住んでいた頃には、長男のために東京都立大学工学部に通う夏の洋服を、次男のために小学校の洋服を仕立あげたこともあります。
こうして振り返ると切りがありませんが、口と三センチの腕、一本の足を駆使して、何でもできるようになったのは、母が終日鉱山で働き、夜明けまで内職をしていたからです。母には手を煩わせることができなかったので、私は常に創意工夫を凝らさなければなりませんでした。どうしても必要なことは、神様が道を示してくださいます。
私の三センチの腕には腕時計をはめていますが、ふところを除けば、そっと時間を見ることができます。腕が短いからこそできることで、もし腕が長かったら、内緒で時計を見ることは難しかったでしょう。
大腿部から足を切断した方は、断端が短いと義足から抜けそうで困ると言いますが、私は逆に短い方が、都合が良いと思っています。立っていて疲れたら、義足を外してそれに腰を掛けることができるからです。汽車に乗るときは、この義足を自家用の椅子のように使いますので、席がなくても案外平気です。
第三に、最も幸せなことは、明るく朗らかであるということです。一本足のかかしや達磨と呼ばれていじめられてきた私ですが、全く妬みを感じなかったのです。多くの人が他者と比較して劣等感を抱く中、私は母の信心によって、苦難を良い方向に捉え、日々感謝し楽しんで暮らしてきました。
義足は長い方が良いですが、一度切ってしまったら再び長くなることはありません。一般的には諦めることが多いかもしれませんが、私は短さを受け入れ、満足し、喜びを見出しました。このことに感謝しています。
世の中には手足の不自由や貧困、見た目の悪さから皮肉や嫉妬を感じる人が多いですが、私は引け目を誇りに思っています。引け目を誇りにする生き方は、「真剣に苦しみ、事実に生き、運命を愛し、運命を生かす」ことから成り立っています。
明るさはどんな状況においても大切です。嫌々ながら行動するとろくな結果は得られません。元気に明るく働けば、危険も少なくなり、仕事の効率も向上し、自分の気分も良くなります。商売でも、心配りを持ち、明るく接することで、相手に良い印象を与え、結果的に繁盛に繋がると思います。
明朗さは家庭や社会、国家においても重要です。子どもを明るく正直に育てようと思うなら、まず親が家庭内で正直で明るくあることが必要です。朗らかさは浮ついたものではありません。映画や漫才、酒に頼ってはいけません。これらがなければどうしますか? 最悪の状況を考えてみてください。目が見えなくなったら? 耳が聞こえなくなったら? 食事ができなくなったら、どうでしょうか。
本当の朗らかさは、外部の材料によって得られるものではなく、自分の心の中から生まれます。それは自ら創造するものです。その創造的な朗らかさは信心から生まれ、自らの生命の中に生き生きとした力を持たなければ、真の朗らかさは生まれません。この生き生きとした生命の力を育む道が、生神金光大神の取次の道であると信じています。
以上のように、健康であること、不自由が少ないこと、正直で朗らかであることが、私の幸せの理由です。過去に幾度も泣き、苦しんだこともありましたが、今振り返ると一切の恨みはなく、すべてに感謝し、幸せを思い出させていただけるようになりました。これは全て、母の信心の徳と、多くの先輩や先生方のご指導、金光さまの御取次の賜物です。
つづく
こころの練習帳 |
007 笑顔の練習をしよう。 |
しあわせだから笑顔になれるのかもしれません。 でも、しあわせになるために笑顔になることも大切だと思います。 笑顔は人を惹きつけ、周りもしあわせにする力があります。 しんどい生活の中でも笑顔を忘れないように、 今日は笑顔を心がけてみてください。 |
金光教ガーデナ教会、ロスアンゼルス教会からのお知らせ
朝参りと信徒会会議
金光教ガーデナ教会は、十一月三日(日)午前9時から早朝祈念を行います。ご祈念後には、教会の内外の清掃を行います。その後、昼食を挟んで信徒会の会議があります。どなたでもご参加いただけますので、興味のある方はぜひお越しください。
GCWC 勉強会
GCWCは、十一月十七日(日)午前10時から午後2時まで、「伝記金光大神」についての討論と質疑応答を行います。
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